何回目の稽古だったか忘れたけれど、「手の倫理」(伊藤亜紗, 2020, 講談社)のことを話していたときに、「聴覚の接触について知りたくて読んだ」というようなことを言っていたのをやけに覚えている。ぼくにとって接触とはあたり前のように、形あるものとのあいだでだけ起こることだった。彼女にとっては、音も直接、触れてくるのだという。
音は振動だと思うようになったのは、クリエーションのだいぶ序盤の方だったと思う。指向性スピーカーだったためか、遮るものがあれば音はくぐもるし、観客に向けられた音は舞台上ではすこし聞こえづらかった。この半年でライブに行くようになって、キックの鳴りに合わせてズボンの裾が揺れたことからも気づかされた。
音が振動なのだとしたら、音が「触れてくる」という感覚も分かるような気がした。聞こえてくる音は、空気を震わせてこの耳に届いている。空気がこの体を包んでいる以上、振動はそれを介して肌に伝わってくる。聞くという態度が、この体で振動を引き受けること、を指すとしたら、聞くことはもはや耳だけが担うものではなくなった。体を澄ます、肌と空気の境界はゆるやかにほどけ、微細な震えを感じる。
聞くという態度の変化は、動きにもある気づきをもたらした。これまでの動きは、ただ音に合わせるという表面的なものだった。それは音を聞いているようで聞いていなかったのだ。では音を聞きながら動くにはどうすればよいのか。
頭の中で再生されているテキストが、同時に、自分の声帯とは離れたところから音となって聞こえてくる。向こう側から、振動となった自分の声に触れられる。この、おかしな状況で体を澄ます。はじめは酔いをもたらし、動くことができないような気がした。流れてくる音をどう捉えていいものか分からず、ただひたすらに、「聞く」と「動く」を切り離し、乗り換え、継ぎはぎのように進行するしかなかった。そのときの体はまったく鑑賞に耐えうるものではなく、さらに「聞く」を保つことが難しくなり終盤ではほとんど忘れているような状態だった。
流れを変えたのは、何気なくはじめたひとつの作業だった。これまで、〈振動・空気・体〉と捉えていたものを、〈振動・空気・肌・体内〉という意識に変えた。自分の〈体〉と思っていたものを、可能な限り〈肌・体内〉へと二分し、さらに〈肌〉の存在を強め、厚みを加えることで意識に拍車をかけた。〈肌〉という薄い一枚布に肉や骨を包まれているイメージにも近い。この意識の変化によってなにができたかというと、〈空気〉への「触れ返し」だった。〈振動〉への「触れ返し」と言ってもいい。さらに言い換えればそれは、自分の声と出会い直すことだった。〈体〉が〈肌・体内〉へと二分し、外側への感覚が鈍ったことでむしろ、〈体内〉が〈振動・空気〉へと意識的に触れるという状態をつくることができたのだ。〈肌〉に包まれた肉や骨が、〈振動・空気〉をかき分けながら動きを形づくる。この「触れ返し」は、「聞く」ことの繊細さを保ちながら「動く」ことを可能にした。さらに、「聞く」という態度に、硬さや温度、といった触覚的なバリエーションをもたらした。「聞く」ことは表面的な接触から、深度のある接触へと変化していた。繰り返すうちに、体を澄ますときと同じように、〈肌〉は厚みを保ったまま〈振動・空気〉との境界をほどいていった。そのときの、〈体内〉を外側へうずめていくような感覚は気持ちのいいものだった。
音が振動であれば、音楽は時間的に連なった振動、ということになるだろう。振動の連なりはグルーブを産む。もちろん振動を通して、グルーブはこの体へと伝わる。振動の一つひとつへの「触れ返し」は、グルーブの内部へと侵入する手立てとなるのではないかという、楽しい考えがよぎる。そのとき、単に音に合わせて動く、ではない、なにかへと変化しているに違いない。
その場で見ている人がいることの良さは、ライブハウスの暗がりでほとんど踊りながら横目で見ていた、周りの人たちが好き勝手揺れている様子があんなにいいものだったことと繋がっている。同じ空気を介していることで、なにかへと変わったときの、音と触れ合っている微細な感触を確かに感じることができるはずだ。
2022.03.25