*このテキストは、卒業論文として2022年3月に執筆されたものです。
目次
第一章 序論
第一節
第一項 はじめに
第二項 演劇とパフォーマンス
第二節
第一項 パフォーマンスが逃げてきた場所、解釈学・記号論的美学からの解放
第二項 パフォーマンスが創造するもの、素材性とシニフィアン/シニフィエとの関係
第二章 本論
第一節
第一項 極値としての「ポストドラマ演劇」
第二項 「新劇」と「アングラ演劇」の二項対立、平田的「現代口語演劇」の勘違い
第二節
第一項 岡田利規/チェルフィッチュの登場 「超口語演劇」による〈言葉・身体〉
第二項 村社祐太朗/新聞家の演劇実践
第三項 チェルフィッチュとアンチ・チェルフィッチュとしての新聞家
第三章 結論
第一節
第一項 “現代演劇”の現在地
参考資料
参考文献一覧
付録 観劇/参加ワークショップ記録
*凡例
「」は引用/固有名詞を、“ ”は筆者による強調を、 は強調を示す。
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第一章 序論
[1.1.1 はじめに]
あらゆる芸術は、それが形作られた時代の文化や信仰などと相互に影響しあい形を変え続けてきた。また、芸術は往々にして、(芸術の内外を問わない)既存のシステムを疑いそれを解体し拡張するという側面も持ち合わせている。演劇に限ってみても、劇作家/演出家/俳優たちは、ある一時代をかけて築かれてきた理論や美学に対抗、破壊し、乗り越える形で上演を創出しながら新しい理論を形成してきた。そうした脈々と続く流れの上で、いま現在行われている日本での上演、いわゆる“現代演劇”はどのような様相を保っているのだろうか。
今回は、演劇にとって重要なマテリアルである“言葉”と“身体”に焦点を当て、その関係の変遷を辿りながら議論を進めていく。ここ20年ほどで「演劇」と聞いて一般的に思い浮かべられるものとはかけ離れた上演が増え、2019年1月にはこまばアゴラ劇場にて『これは演劇ではない』というフェスティバルが開催されたほどである。それぞれに特異な様相を持つ上演のいくつかの“言葉”と“身体”の関係をつぶさに検討することを通して、日本の“現代演劇”の一側面をあぶりだすことができれば幸いである。
[1.1.2 演劇とパフォーマンス]
日本の“現代演劇”についての話を進めるにあたって、それ以前の上演芸術における“言葉”と“身体”の関係の歴史的展開を確認することから始めようと思う。本論では1960年代末に起こった「パフォーマンス的転回」を、今日まで続く演劇シーンにおける重要な一つの転換点として捉え、まずはパフォーマンスの諸要素を検討していくこととする。なぜパフォーマンスの登場は旧来的な演劇の根底を揺るがすほどのものだったのか。そのうえでパフォーマンスが産出したものは何だったのだろうか。
[1.2.1パフォーマンスが逃げてきた場所、解釈学・記号論的美学からの解放]
第二節では、エリカ=フィッシャー・リヒテ『パフォーマンスの美学』(翻訳:中島裕昭ほか, 2009, 論創社)、伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(2021, 講談社)を参照しながら、パフォーマンスが登場した背景ならびにパフォーマンスが産出していたものを見ていく。参照する文献のどちらも原文自体はあまりにも連鎖的で複雑に組み合わされているため、要旨をまとめながら進めていくことにする。
パフォーマンスの登場もまた、それ以前の上演を否定する形で登場した。対象となったのは“文学としての演劇”である。
1960年代以前に主流であった“文学としての演劇”とはまさしく、演劇そのものが文学としての機能を果たしていた、ということを示す。上演を形作るさまざまな要素の中で劇作家の書く戯曲こそが最重要であるとみなされたのだ。当時の俳優の役割は、劇作家によって書かれたテクストを読み取りその意味を表現することだった。俳優が率先して新しい意味を構成する必要はなく、テクストの中に表現されている(とされる)、たとえば登場人物の感情であるとか、考え方、性格などを、その身体を以って表現することが求められた。そこで俳優の身体は、戯曲を再現するための最適化が目指された。「身体化」という概念の登場である。
「身体化」という概念の背景には心身二元論の考えが採用され、意味は精神的なものとして捉えられる。そのため意味は、対応する記号を発見することによって創出される。“テクストを読み取りその意味を表現する”とは“テクストの意味に対応する記号へと変換する”ことを指し、すなわち「身体化」とは“俳優の身体を記号として扱う”ということであった。
「身体化」の概念の下では、感情や心理状態に対応する記号へと置き換えることができる“純粋に”記号的な身体が必要とされる。“純粋さ”とは、ノイズのなさのことである。つまりは俳優から、記号的な意味を持たない個人的で特殊な(世界内存在的な)身体性は取り除かれなければならなかった。
パフォーマンスではまず、まったく真逆の身体が提唱され、「身体化」の概念は否定された。
俳優の現象的な身体は、言語的に構成された登場人物のための媒体でもなければ記号でもない。舞台に現れる登場人物は俳優/パフォーマーの特別の世界内存在なしには考えられないし維持もできない。登場人物は個人的な現象的身体を消し去ることはできないし、現象的身体の向こう側に、いかなる存在ももっていないのである。
(エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』,133p)
身体が現前する舞台という機構において、俳優がその個人的で特殊な身体として存在してしまう揺るぎない事実を隠ぺいすることなどできない。俳優の世界内存在的な身体“である”ことからは逃れられないのである。
例えば、俳優aが舞台上で行うことのひとつとして、声の使用がある。「身体化」という概念の下では、テクストに記された登場人物aの台詞があった時、文字そのものが示す情報に加え、読み取れたサブテクストの意味を声色や声の方向といった記号に置き換え声を表出させる。“文学としての演劇”では、俳優aの声は登場人物aの声と同一視され、その場には登場人物aの声がある、と捉えられた。一方、パフォーマンスが主張するのは、俳優aの声が、あくまでも俳優aの声からは逃れられないということである。その場には俳優aの個人的で特殊な身の範囲で俳優aの声がこだまする。
この視点の遷移によってパフォーマンスは、もはやテクストを必要としない、その場での俳優の個人的で特殊な身体の使用へと向かう。ここで重要なことは、単にパフォーマンスにおいてテクストが必要とされなくなったという局所的な事実だけではない。「身体化」の概念が否定されることによってもたらされる、上演の場における「解釈学・記号論的美学」の通用という神話の崩壊こそが重要である。
私たちは、なにか作品を見たときに、意味や正解を求める。理解できないものにストレスを感じ、作者の意図やステートメントを読み意味を探したりもする。まさしく、「解釈学・記号論的美学」が通用する、意味が分かりやすいものを好む傾向にあるだろう。
記号を意味へと置き換えられる(理解しやすい)ということは、そこに意味へと変換しうる記号が存在している。この記号を配置したのは作家であり、作家は記号に対応する意味(=正解)を持ち合わせていると言える。こういった作品を介してのコミュニケーションは、作家から鑑賞者への一方的な伝達ではないだろうか。
つまり、パフォーマンスにおける「身体化」の否定は、“伝達の構造”の否定へとつながる。では、なぜ“伝達の構造”が否定されなければならなかったのか。
ポール・ヴァレリー[1]は詩文における「描写」を強く批判することで、その前提となる“伝達の構造”を否定する。以下の二点を理由としている。
第一に、「描写」が産出するものは“現実らしいもの”であり、それは結局“あやまった現実”でしかないということ。そもそも、作者が書いたものとそこから読み取る鑑賞者のイメージの間にはズレが存在する。伝達というものが作者から鑑賞者への一方的な受け渡しであるにもかかわらず、逆説的に伝達不可能性をも孕んでいる。「描写」によって描かれる情景はすべて作者が恣意的に選択した結果生まれているにもかかわらず、「描写」につきまとう伝達不可能性に目を背け、“現実のフリ”をさせた“あやまった現実”を読者に受け入れさせるといういやらしさを批判しているのである。
第二に、「描写」に与するテクストが記号としての役割を果たすのみで、消失してしまっていること。先ほども述べたが、“伝達の構造”のなかでは、意味が記号へと変換され、鑑賞者は記号を意味へと変換することで意味を理解する。「描写」における記号(=テクスト)は描写される内容(=意味)へと「有用な転移」を繰り返す。このとき、テクストは媒介としての機能を果たすのみで、鑑賞者の意識を意味の方へ向けてしまう。「伝達の構造」においてもはやテクストは消失し、それによって鑑賞者は意味を受容するだけの、身体を忘却した存在へとなってしまうことを問題視した。
ヴァレリーの「描写批判」による“伝達の構造”の否定は、詩文に限った話ではなく、作家と観客の関係の問題へとつながっており、この構造批判をパフォーマンスの姿勢にも援用できることは明らかだろう。
これは後に再度述べることになるが、パフォーマンスの登場した構図は、日本における「新劇」を打ち破る形で出てきた「アングラ演劇」の登場構図との類似性が認められるだろう。また、その後登場することになる「現代口語演劇」をはじめとする“現代演劇”にとっても影響を与えることとなる。
[1.2.2 パフォーマンスが創造するもの、素材性とシニフィアン/シニフィエとの関係]
「解釈学・記号論的美学」という神話を崩壊させ、“伝達の構造”から逃れたことでパフォーマンスはなにを産出したのか。
パフォーマンスは、一言で言うと「出来事」をつくることであった。例えば、マリーナ・アブラモヴィッチ(1946-)[2]は観客の前で、「はちみつやワインを大量に飲み食い」したり、「腹部にペンタクラムの形に傷をつけ」るなどの行為を披露した。上演に居合わせた観客が当惑したことは想像に難くない。
マリーナの場合はショッキングな手法によって〈いま・ここ〉性を強調することを選択した。これらの行為は何かしらの意味として解釈することはできず、ただその行為が行われていることを示す(行為遂行性)。観客はもはや意味を受け取る傍観者として存在することは許されず、パフォーマーによって巻き込まれるかたちで「出来事」を経験することになる。
「出来事」の産出は、上演の場における主体と客体の関係を変化させることであった。この関係の変化は、上演の場における意味の関係性をも変化させた。素材性とシニフィアン[3]/シニフィエ[4]の関係である。
“伝達の構造”においては、作家の用意した素材性がシニフィアンとして機能する。観客は素材性に紛れ込んだシニフィアンを探し、シニフィエを汲み出すことに躍起になった。“伝達の構造”では、“素材性=シニフィアン→シニフィエ”という一方通行的な関係のみで進行する。
一方、「出来事」の産出に関わる行為遂行的な行為は、単純なシニフィアンとして理解されることを拒む。「出来事」に巻き込まれる形で主体と客体の関係がない交ぜになった上演では、場のあらゆる素材性が観察の対象となった。素材性とシニフィアン/シニフィエは重なり合い、ときに同時並行的に存在するものとなった―先ほどの例で言えば、俳優aの声はその個人的で特殊な俳優aの声でありながらにして、ときに登場人物aの声としても認識できるのだ。その場合も、俳優aと登場人物aが同一視されることはなく、特殊な緊張関係を結びながら上演の場に存在することになる―。素材的位相と記号的位相が複雑に折り重なった場に巻き込まれた観客は、その狭間で知覚の急転を繰り返し安定しない。このような状態に置かれた観客は、意味や理解を凌駕した無意識のうちの意味、身体感覚や感情などが巻き起こすようなものを得る。このときに現れる意味はもはや、なんの因果関係もない、しかし確信を持った個別の経験として産出される。
この意味の創出の過程は、観客の身体なしには考えられない。ここで再度、ポール・ヴァレリーによる「時間論」と「身体論」を引用しておく。
「時間論」では、「予期」が裏切られる瞬間の身体の解体と再構築について、が語られる。少し先の未来を予測している身体が、不意打ち的に「予期」とは異なる出来事と出会うことは、世界と身体のあいだの「ずれ」を知覚することである。「ずれ」を知覚することは、正常に機能していた(=「予期」通りの出来事が起こる)ことで疎外されていた自身の身体を喚起するきっかけとなる―小石に躓いた瞬間、身体を駆動し転ばないようにすることの意識など―。
「身体論」では、素材的位相を持続的に知覚できる身体の機能について、が語られる。ヴァレリーは網膜の補色の機能―青い画像を見つめ続けると黄色が目に浮かぶなど―をきっかけに、観察した対象を身体が記号的位相でも素材的位相でも認識できることに言及する。そのうち素材的位相の知覚の保持は、「有用な転移」とは無縁であることから、直接的に知覚する身体の機能へと意識を向ける。
以上の主張は、パフォーマンスが筋を放棄しある種ショッキングな手法によって「出来事」を産出することで〈いま・ここ〉へと意識を向け、観客の身体の喚起へと与していることを、より強固なものへとしてくれるだろう。しかしあくまでも、パフォーマンスが“言葉”を放棄し“身体”を喚起することにのみ注力したある種、極値的な例であることも確認しておいてほしい。
「パフォーマンス的転回」は各国に波及し、上演芸術の様式を攪拌した。日本もその影響を色濃く受け、のちに進めていく“現代演劇”の議論において、その登場背景や手法にパフォーマンスとの類似性が認められるだろう。
第二章 本論
さて、第二章では実際にいま現在上演を行っている作家を具体的に取り上げながら、“現代演劇”についての論考を進めていく。第一節では“現代演劇”の登場と、その背景を含めた構造的潮流について。第二節では岡田利規と村社祐太朗を例に挙げ、“言葉”と“身体”の新たな関係の構築からもたらされるフィクション性についてという流れで進行する。
[2.1.1極値としての「ポストドラマ演劇」]
パフォーマンスの登場によって、演劇上演は戯曲テクストを記号的に変換し伝達する「文学的演劇」からドラマ形式にとらわれない多様な形式を獲得した。確認した通り、上演の場に「パフォーマティビティ(行為遂行性)」という概念が導入され重視されるようになったことで、テクストはもはや放棄され、一つの声や音、詞が連なることで連想的な意味生成や、観客との関係を変容させ巻き込む「出来事」の創出を一つの特徴とした。ドイツの演劇学者、ハンス=ティース・レーマン(1944-)はそれを「ポストドラマ演劇」と称し、新たな演劇美学を理論化することを試みた。先駆的な事例に、ロバート・ウィルソンによるテクストを放棄し長時間に及ぶ反復運動のみを実践とした上演作品や、ハイナー・ミュラーによる舞台化不可能な対話が崩壊した『ハムレットマシーン』などがある。そのほか、シアター側での歴史的アヴァンギャルドの実践や未来派やダダなどのパフォーマンス・アートの潮流が演劇のドラマ中心主義を大きく揺るがし、上演芸術の美学的位相を「ドラマの創造と鑑賞」から「人々が集まり出来事を産出する上演参加」へとシフトさせたのである。
この一連のシーンの更新は、テクストと身体を可能な限り分離させ、あくまでそれぞれを個別の素材として扱う手つきを生み出した。「文学的演劇」が上演を通して理解されるテクストに重きを置いていたことは先にも述べたとおりである。そのアンチテーゼとして登場した「ポストドラマ演劇」が「文学的演劇」の核となる部分、つまり上演がテクスト重視になっていることを批判することからはじまり、むしろテクストを放棄することで身体に焦点化する上演に自身のアイデンティティを設定したことは、ごく自然なことのように思える。しかし、再三述べることとなるが、「文学的演劇」と「ポストドラマ演劇」は対極をなすような関係にあり、“言葉”あるいは“身体”へと一元化する手つきを生み、寧ろその関係は、ないがしろにされていたのである。
[2.1.2 「新劇」と「アングラ演劇」の二項対立、平田的「現代口語演劇」の勘違い]
日本の演劇シーンにも類似する潮流があった。西洋近代劇が輸入され、その模倣としてのリアリズム演劇が上演の主要な手法として取り入れられた。「新劇」である。1960年代、「新劇」に対抗する形で「アングラ演劇」が登場して以降、それらは二項対立的に日本の演劇シーンを展開してきた。
構造としては「文学的演劇」と「ポストドラマ演劇」に近似するものがありながら、「新劇」の場合はリテラルな意味での「文学(的)」、すなわち“読み物”としての側面が強くあった。一方「アングラ演劇」は“俳優の(身体ではない)肉体”や“血”という側面を持った。「新劇」と「アングラ演劇」はその戯曲テクストが、上演を前提として書かれた言葉であるかどうかを基準線として展開していく。
1990年代になると、平田オリザ(1962-)による「現代口語演劇」が提唱され、現代口語による上演という要素が持ち込まれた。日本の現代演劇の潮流はここからが始まりである。「現代口語演劇」は、「新劇」的な虚構性の強い劇的言語ではなく、いま現実に話されている口語としての日本語の特性を捉えた言語を使用する手法であった。「文学的演劇」が記号的に結びつけることで生み出した〈言葉≧身体〉という関係とも、「アングラ演劇」がパフォーマティビティを生み出すことに注力することで生み出した〈言葉<身体(=肉体)〉という関係とも異なる、〈言葉・身体〉という共存する関係を構築しようとしたのである。
平田は「現代口語演劇」を、「新劇」と「アングラ演劇」の二項が展開する状況に対するカウンターとして位置づけようとしたはずだが、「演技に感情はいらない。外面だけで成立する。」「俳優は駒である。」などの少々過激とも捉え得る発言が独り歩きしてしまった。また、「アングラ演劇」からは、「現代口語演劇」が「新劇」の「文学的演劇」の延長上に定位する存在として見えたことが事態を複雑化させた。口語というからには発語が前提とされておりそこでの身体性が前提とされていたはずが、エクリチュールに焦点化されてしまうことになり、革新性は雲隠れしてしまう。平田的「現代口語演劇」は勘違いされ、「現代口語による上演」という要素が取り込まれただけの、「文学的演劇」と構造が何ら変わらない上演が量産されることになったのである。
[2.2.1 岡田利規/チェルフィッチュの登場 「超口語演劇」による〈言葉・身体〉]
「現代口語演劇」が勘違いされていく中、チェルフィッチュを主宰する岡田利規は、その本質的な部分に触れ、新たな〈言葉・身体〉の関係を築きその革新性を発展させていった。岡田の書く戯曲テクストは一時「超口語」といわれ、上演は口語を発語する際の身体性そのものに注力するような様相を呈した。
岡田の戯曲テクストの革新性は、「登場人物という概念を流動化させる」という手法が取り入れられたことであった。『三月の5日間』(2004)を代表とした初期作品において岡田は頻繁に、語り手として観客に直接話しかけるという物語の外側の視点や、異なる人物を一人の俳優が演じる(あるいは一人の人物を異なる俳優が演じる)といった手段を取り入れた。ここで重要なことは、通常「小説的な語りと想定されるものを上演に導入し」たことである。
岡田が舞台『三月の5日間』でやってのけたのは、まず第一に、従来は分かちがたく(そして特に疑問に附されることもなく)結びついていた「アクター(=俳優)」と「キャラクター(=登場人物)」を切り離し、組み替え可能にしたこと、そして第二に「アクター」に「ナレーター(=話者)」という機能を付与したこと、もしくは「アクター」にあらかじめ潜在していた「ナレーター」としての属性を切り離して増幅してみせたこと、である。
(佐々木敦『新しい小説のために』, 2017, 講談社, 175~176p)
つまり、「登場人物という概念を流動化させる」ことは、「アクター」「キャラクター」「ナレーター」という「三つの指標に従った言語形式を採用する」ことによって達成された。
男優1 (観客に)それじゃ『三月の五日間』ってのをはじめようって思うんですけど、第一日目は、まずこれは去年の三月の話っていう設定でこれからやっていこうって思ってるんですけど、朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣にいる女が誰だよこいつ知らねえっ」っていう、「あ、そうだ昨日の夜なんかすげえ酔っぱらって、ここ渋谷のラブホだ、思い出した」ってすぐ思い出してきたんですね、
男優1 それでほんとの第一日目はっていうはなしをこれからしようと思うんですけど、「あ、昨日の夜、六本木にいたんだ」って、えっと、六本木で、まだ六本木ヒルズとかって去年の三月ってまだできる前の、だからこれは話で、ってところから始めようと思ってるんですけど、(略)
(岡田利規『三月の5日間』, 2004, 白水社, 29~30p)
戯曲『三月の5日間』の冒頭部分を見ただけでもその特徴は十分に理解できるだろう。「超口語」と評されたどこか要領を得ない語り口という形式は、「アクター」「キャラクター」「ナレーター」という三分立する言語的指標を織り交ぜることに最適だったように思う。「ナレーター」、つまり小説だと地の文に相当するような観客への語りは、旧来的な舞台と物語の関係を引き剥がし、舞台(構造)自体を対象化してみせた。また「アクター」が「キャラクター」と「ナレーター」の役割をシームレスに行き来しながら物語の内側と外側の視点を複雑に織りなすことによって、物語が引き剥がされた何もない舞台上にまさしく〈いま・ここ〉でフィクションが立ち上げられていく様を現わしていたし、観客はそれを目の当たりにすることとなった。舞台上の神話を崩壊させ、演劇の原理へと接近するチェルフィッチュの上演にとって、小説的なテクストは「語り」のリアリティを担保する材料となったのである。
俳優たちの発語自体は劇的なもの(例えば、感情を作動させるようなもの)になることはないが、決して朗読に留まるものでもない。基本的に観客を対象として「語り」が行われるのだが、どこかだらだらとしたテクストを一言一句違わず発語することによって、テクストによって規定される冗長率を保ちながら、しかし淡々と進行していく。そして、テクストを発語する俳優の身体性は特異なものとなる。
「超口語」も「現代口語」と同じく、いま現実に話されている口語としての日本語の特性を捉えた言語である。言い淀みや繰り返しを多分に含むテクストの発語は、日常における会話・説明の際と同様の身体を促す。道案内における手振りが一つの好例だろう。そこに〈言葉・身体〉の関係の活路を見出した岡田は、そのような身振りを増幅させた特異な身体を舞台上に乗せた。だらだらと発語する俳優の身体は同様にだらだらとした印象を与える。旧来的な演劇における身体と比較するとかなりダンサブルにも見えるが、岡田はその身振りを外部から規定する、いわゆる振付的なことは行っていない。ただ、テクストから喚起されるイメージ/情景を鮮明に想像することを要請する。
家のことを話してくださいって頼んだってことは、家のことを“想像”することになりますよね、そのことを思い描かないと喋れないですから。そのことをやってくれましたよね。家のことを話してたということと同時に家のことを思い描いてたということがこのワークショップにとって重要です。
そして想像していたことによって動きも生まれました。僕にとっても演劇つくることに俳優の体の動きっていうのはとても重要なものだと思ってます。あの、俳優の体の動きっていうのは俳優がその時に喋る言葉とは異なる、えっとー、またその身体の動きというそれも一つの言葉であり、そして、セリフによって与えている情報とは別のものを伝えることがそれによってできると思っているからです。そしてその動きがどこから来てたのかっていうのはその時に思い描いてた部屋の“想像”、そこからその動きがやってきてるんだっていう事がまず僕にとって大事です。つまり動きは言葉、喋ってる言葉からやってきてるわけではない、その動きは想像からやってきてるわけですから“想像”が大事だっていう事でもあるんです。
(Workshop “Imagination choreographiert” mit OKADA Toshiki, Teil1(10.&11.12.2020) より文字起こし)
岡田は、人間がなにかを語る際に思い描くイメージ(=想像)に焦点を当てることで〈言葉・身体〉の新たな関係を見出した。俳優は、テクストを発語しながらにして、テクストと紐づいた(あるいはそれ以上の)「想像」によってもたらされる身振りを行う。このとき俳優の存在は、言葉(あるいは身体)へと一元化されたメディウムにならず複層的な状態を保つ。岡田はこれを「テクストのトラック」と「想像のトラック」という言葉を用いて説明する。つまり、「語り」によってもたらされるテクストの情報と、身体(身振り)からもたらされる語られざる情報が混ざり合ったものが舞台上に表象するのである。
この身体性が「現代口語演劇」の発展だと言えるのは、先にも述べた平田オリザの「俳優に内面はいらない」という主旨の発言と関係している。佐々木敦は平田作品について、
平田にとって「演技力」とは、「俳優」による「役柄」への同一化の技術ではない。(略)「演技」とは、要するに身体の運動、振付、もっとシンプルな言葉を使うなら、要するに「作動」なのである。「戯曲」に書かれた通りに「作動」さえ出来れば「俳優」は「役柄」として「存在」し始める。言い換えるとそれは、徹底的に「外面」だけが問題にされているということである。(略)観客の脳内に登場人物たちの「内面」が我に生成されて、ついには「リアル」な「世界=現実」の「ダイレクト」な表象が立ち現れることになる。
(佐々木敦『新しい小説のために』, 2017, 講談社, 145p)
という分析を残しており、そこに共鳴する手つき/効果が岡田の作品にも見て取れるはずだ。
岡田の言う“想像”が、どのようなものかもう少し詳しく確認しておく必要があるだろう。2020年に、ラッパーのOtagiri、映像作家の丹下紘希とコラボレーションする形で制作されたチェルフィッチュ初の映像作品『アウトラップ』では、配信に関連して岡田による振付メモが公開された(現在は非公開)。Otagiriによるリリックから端を発した様々な言葉や図形が書き込まれていた。覚えている範囲で書くと、「体全体がお盆の上のようなグラグラした状態」であったり、「鏡の中に吸い込まれる、それでも前に進もうとする」といった文言があり該当のシーンも作品内で確認できた。旧来的な演劇における想像は主に、「キャラクター(=登場人物)」の心情や動機といった物語を構成するための解釈をする方向へと向けられる。一方、岡田の場合の“想像”とは、テクストを繰り返し読むことによって生まれる主観的/潜在的イメージや、空間的広さ、身体の所在といった、どこか抽象的で無機質なものである。岡田は、言葉によって喚起された(あるいはそれ以上の)“想像”が身体に影響を与えることについて以下のような発言をする。
僕の代表作とよく言われるのが『三月の5日間』何ですけど、あれはセリフなんですよね。セリフを発する俳優のからだの中で、例えばお酒飲んだら酔っぱらうみたいな効果が起きて、そのセリフに反応して何かが身体の動きが起こる。
(岡田利規『コンセプション』, 2014, 天然文庫, p60(電子版))
旧来的な演劇のように、「キャラクター」との同一化を図る際の人物造形に係わる想像とは一線を画していることが判るだろう。岡田の言う“想像”はテクストそのものを「語る」際に脳内で再生される映像のようなものであり、私たちが日常的に何かを話す際に思い浮かべるものの発展系のようなものである。ラップのリリックにすらその手法が取り入れられていることからもその視点の差異が確認できる。そのような“想像”によって駆動される身体をより細密に、仕掛けられたものとして準備することで新たな〈言葉・身体〉の関係を作り上げようとしているのである。
小説的言語という革新的なテクスト、それを発語する際の“想像”によって担保された複層的な身体は、〈いま・ここ〉で観客の脳内によって補完されるかたちでフィクションが立ち上がるという最も演劇らしい(演劇の原理に近づく)方法を用いることで現代演劇のシーンを更新し、のちに影響を与えたのだった。
[2.2.2 村社祐太朗/新聞家の演劇実践]
村社祐太朗は2014年より新聞家としての活動をはじめ、平田オリザが開始し岡田利規が発展させた〈言葉・身体〉の関係についてさらなる実験を行っているような作家のひとりである。
新聞家作品の特徴はまさしくその戯曲テクストと上演時の身体性にあると言える。まさしく、と断ったのは、上演のほとんどが“言葉”と“身体”のみによって構成されるようなミニマルな印象を与えるものだからである。
新聞家の上演における実践は、そのほとんどが「読む」ことにある。俳優はものすごく慎重な発語をし、覚えてきたテクストにまさしくその場で対峙しているかのようである。上演に居合わせる観客はかなりの集中力と緊張感でその発語を通したテクストに意識を向けることとなる。しかし、テクスト自体に難解な単語が使われているわけでもないにも関わらず、その意味は少々汲み取りづらいものである。
緩みをもともと含んでいるとは知らなかった。指で少し押せば開くというのを試すたび湧くくぐもりがある。珪藻土のプレートと、山林の紫陽花が思い浮かぶと張り詰めた息が涙点からゆっくり漏れていく。また祈りも、陽太がこじ開けられるのであればって頭を満たしては戯けて萎れる。鍵を落としたことは、そうやっていくつもの小さな延び縮みに姿を変えていった。晴太がつぎはどこを食べてやろうかと、背筋を伸ばした。甘いマスタードが小鼻についている。食べ始めてからずっと口の中がいっぱいで、目ばかりが返事をする。自転車の新しいサドルは柔らかいそうだし、陽太の作った果実酢は美味しいし、今日はお腹を壊さなかったそう。いまも鋏は、刻一刻と錆びていく。そう思えばそうだけれど、そう思わないうちはそうでない。しばらく噛むのを止めている晴太は、二番目のレモンを寄越した。ねじ伏せられた黄色い包み紙のもどりの終わり。気づかなくてもよかったのに、わたしのほんの小さなしらせに従順に、紙コップを手に飛び上がって、柱の陰に消えた。あなたはゼビオで靴下を買うという。(中略)5本まとめてラップされた甘いとうもろこしをまた手にとっている。それは岐阜の道の駅だった。戻りすがら「糖度18度としか書いてないね」と言って、送り状の品物の欄に吹き出しを書き、その中に「生食可」と書いた。顔を挙げると、恐々「せっかくだしね」と言ったんだった。ブルーグレーのペリカンのツールボックスは、あなたのお古だ。だからスペアの鍵があるかもしれない。丸ゴシック体で大きい「介護福祉士」が目立つチラシを晴太が取っていった。自分の力で一歩踏み出して、それとセットだったんだ、と思った。わたしが見逃すことと聞き逃すことと、あなたのその表情。こういうのにわたしはいつも遅れて気づく。ひとつ、「クール便でいいね」と急がずに言えた。
(村社祐太朗『フードコート』上演台本より抜粋)
上記は、2019年9月~12月にかけて曳舟のTABULAEという一面窓ガラスの引き戸が通路に面した小さなオルタナティブスペースで上演された『フードコート』という作品の戯曲テクストの抜粋である。テクストは散文かつ文語で執筆されており、全編通して1000字程度が約15分の時間をかけて上演された。一般的に人が一分間に音読できる文字数が300字前後とされていることからも上演時の発語の慎重さが伺えるだろうし、一方でその意味の汲み取りづらさも想像に難くないはずである。しかし驚くことに「読む」という行為を主として構成される上演が言葉に一元化することはない。
演劇批評家の内野儀は新聞家の実践に早くから注目し、最大の特徴をその「特異なエクリチュール」にあるとしている。2016年7月に日本橋のギャラリーNICAというホワイトキューブで上演された『帰る』という作品がある。震災の影響で傾いてしまったらしいマンション唯一の賃貸入居者である男女が家を出るにあたって、それぞれの記憶と思われる独白をする。一方が話しているあいだ、他方は美術として持ち込まれた日替わりの果物を口にする、という内容なのだが、その『帰る』に寄せて、以下のような分析をする。
一見、脈絡がない「過去の想起」/「記憶の語り」に、観客は相当集中して意識を集めることを強いられる。まるで、何かの朗読会にたちあっているかのようだ。しかし、二人は俳優であり、その日だけしかない特定の果物をどうやって食べるかを考えながら、覚えた台詞を話しているのであり、あるいは、貴美と史穂という登場人物を演じているのであり、日替わりの果物という意図的に持ち込まれた偶発性のための仕掛けも手伝い、〈今、ここ〉で語られる言葉が、〈今、ここ〉での身体を伴った想起であるという感覚と、すでに書かれた台詞の反復である、というある種、分裂した劇場的な体験をすることになる。(略)もちろん、「過去を想起している人物(だけ)を演じる」ことは可能だし、佐々木的なカテゴリーで言えば、アクター=キャラクターが、〈今、ここ〉で、「過去を想起しているという事実は事実として、知覚されるだろう。だが、その知覚に相反するように言語レベルにおいて、語る人物自身の感情を惹起させるような表現や文は、丁寧に排除されている。つまり、テクストの言葉や文を発語することを媒介にして、アクターが身体的にキャラクターを「作動」させる回路が丁寧に絶たれているのである。そのために村社は、リニアに進まず脈絡が明確でないようなズレ/落差/距離をテクストの言葉にうっすらと与える。と同時に、想起というリアリティが失われないための細心の注意も払う。
そのうえこの作品では、想起される過去の内容とは関係のない別の行為(=果物を食べる)を課すことで、俳優の演技が「作動」しないための二重の安全装置までかけられている。果物を食べているのは、アクター≠キャラクターなのだから。さらにまた、村社の言語は、純粋な現代口語ではなく、文語に近い文体であることも忘れるべきではない。小説的な言語だと言ってもよい。つまり、村社の上演においては、アクター=ナレーターの機能が前景化してくるのである。
(内野儀『詩は到来するのか?』,「現代詩手帖」2018.11掲載,
思潮社p16~17)
内野の指摘は、「過去の想起」/「記憶の語り」という内容の選択により慎重に「読む」という行為(=想起)のリアリティを損なわないようにする一方で、俳優がまさに〈いま・ここ〉でテクストに向き合っていることを前景化させるテクストの妙にある。第一に小説的言語であること、第二に「語る人物自身の感情を惹起させるような表現や文は、丁寧に排除され」ており「脈絡が明確でないようなズレ/落差/距離をテクストの言葉にうっすらと与える」こと、がその特徴として挙げられている。つまり、俳優の「読む」行為が、実感をもった過去の想起をしているようにも、〈いま・ここ〉でそのテクストに対峙しているようにも見えるという「ある種分裂した」体験を生み出しているのは、「過去の想起」という内容でありながら、キャラクターと同一化するための明確な情報が絶たれ、またその文体が小説的言語であるという「ある種分裂した」テクストの性質によって引き起こされている、という分析をする。
内野はさらに『帰る』以降の『揃う』(2016.11)、『砂漠』(2018.8)にも触れ、村社作品での「過去の想起」が共通して「きわめて日常的なものであり、人々の日々の生活にかかわる何気ない行為や発話、あるいは出来事を内実としている」ことを挙げる。そのような村社の「事物や現象のディテイルに徹底的にこだわった細密画的想起としての記憶」を、同じく演劇批評家の渋革まろんが〈源-風景〉と名付けた批評文『新聞家の〈源-風景〉/新聞家『砂漠』について』(2018,note)を引用しながら、独白であるにもかかわらずテクストの構造が孕む「他視点」の存在について言及する。
単視点=一人称だと想定可能な他のテクストにおいても、村社が過去の細部に意識を集中しつつも、ズレ/落差/距離をそこにうっすらと介在させることで、「思い出すべきことを増幅させてい」ると言ってよいと思われる。何のために? 戯曲テクスト(=ドラマ)を、アクターのパフォーマンス、即ち、「劇的言語」や「現代口語」によって「作動」[5]するキャラクターから奪還するためである。そこではむしろ、キャラクターとアクターの「あいだ」にあるナレーター、キャラクターでもアクターでもあるナレーターの「作動」が仕掛けられている。
(内野儀『詩は到来するのか?』,「現代詩手帖」2018.11掲載,思潮社p18)
村社が戯曲テクストに「うっすらと介在させる」「ズレ/落差/距離」が、「思い出すべきことを増幅させ」る(=過去の想起/テクストへの対峙)ことによって、キャラクターへの同一化を徹底的に避けつつも、リアリティを保ちながら「ナレーター」の機能を前景化させるのだ。その「ナレーター」は「キャラクター」「アクター」どちらにも知覚可能な不安定な状態にある。
内野は村社の演劇実践を、W・B・ウォーゼン(1955-)的な意味での「ドラマ」を再興する存在として定位する。ウォーゼンの著書『ドラマ―詩とパフォーマンスのあいだ』(2010, 原題『Drama: Between Poetry and Performance』, Wiley-Blackwell)を引用し、以下のように続ける。
ドラマ、すなわち、上演のために書かれたテクストは、「詩=文学」であるという自己完結的側面とパフォーマンスのために開かれているというふたつのアイデンティティがある。そして、その言語を体験する=読むことは、その先に詩としてのアクションを想像することに繋がらなければならない、と言うのである。(略)
ウォーゼンが問題にしていたのは、韻文であれ散文であれ、伝統的な〈詩的言語〉で書かれた戯曲テクストが、俳優のレパートリー(身振り、語り、声等々)によって上演の〈今、ここ〉で〈物質化〉するときに、観客との間主観的関係性において、効果として形成されるものこそ、〈詩〉でもありパフォーマンスでもありうる〈ドラマ〉だということである。
(内野儀『詩は到来するのか?』,「現代詩手帖」2018.11掲載,思潮社p13~14)
「ナレーター」としての機能の前景化と、「ズレ/落差/距離」が組み込まれたイメージの生成によって、新聞家の上演が〈詩〉に接近しつつも、「パフォーマンス」とのあいだに定位する存在であるという主張は、頷けるものであるだろう。
内野は2018年時点で、村社の「特異なエクリチュール」が〈詩〉でもあり「パフォーマンス」であるものを作り出しているとした。ここでは、新聞家が2019年に岸田國士『屋上庭園』を上演したことにも触れておく必要がある。
『屋上庭園』では極めて日常的な、しかし静謐で親密な情感が台詞によって描かれているという点では村社の戯曲テクストを類似する点はあるものの、会話によって構成されることが大きく異なる。しかし、村社の手掛けた『屋上庭園』では、過去の新聞家作品と同様に「読む」という実践が徹底して行われた。このことは、村社のテクストに対する姿勢、ひいては演劇実践を行うにおいての重要課題が垣間見える。
「読む」という行為そのものを舞台上で前景化させる実践は、俳優がテクストそのものと距離を保つことが条件となっているように見える。他者としてのテクストである。旧来的な演劇においては、〈いま・ここ〉での感覚のほうが重視される。つまり、台詞を覚え「準備」してきたことは巧妙に隠される。しかし、新聞家の〈いま・ここ〉でテクストに向き合っているという姿勢を見せるということは、まさしく“覚えてきたテクストを想起している”という再現性の部分、「準備」を露呈させることである。
演劇における「準備」の露呈が必ずしもいいものになるとは限らないが、新聞家の場合は成功しているように見受けられる。というのも、新聞家の場合は徹底してリアリズムとはかけ離れた身体の「作動」を導入しながら「読む」という実践を行うことで寧ろ、演劇の原理において俳優が“他者としての言葉に対峙する営為”を支持体として成り立っていることを浮き上がらせるのである。村社の実践は決して特異なものではなく、〈言葉・身体〉の関係をミニマルに突き詰めた演劇の原理へと接近するような実践であり、内野がそのテクストの性質に注目し、「〈詩〉を逆説的に「作動」させる」と評したこととも繋がる部分がある。
[2.2.3 チェルフィッチュとアンチ・チェルフィッチュとしての新聞家]
村社はインタビューやトークにて、“アンチ・チェルフィッチュ”として演劇実践を行っていることを公言している。“アンチ・チェルフィッチュ”である以上、村社が岡田の存在を意識していることは明白である。また、村社の実践を、岡田の発展させた〈言葉・身体〉の関係に「まだやることがある」(内野)とさらなる実験を提示しているものとして位置させることは可能だろう。そこで最後に、村社と岡田の実践を並べて考察してみる。
一見、“動”と“静”という離れたイメージを付することは可能だが、その根底や興味、実践理論的な部分では共鳴、あるいは反発しあうような関係にある。村社が実践する「読む」という行為は演劇の原理的な側面を持ち合わせているし、岡田に至っては〈映像演劇〉と名をつけて、演劇で観客にもたらす効果を映像作品の形に落とし込むといったこれまた演劇の原理へと接近するような動きもみられることから、「現代演劇」というフィールドで響き合っていることを確認できる。また、これまでの議論で明白なように、両者が〈言葉・身体〉の関係上の図式は類似し、演劇のシーンから失われつつあったウォーゼン的な「ドラマ」を取り戻そうとしている。つまり、様々なレイヤーで本来的な演劇へと回帰しようとしていると言えるだろう。
直近の新聞家の上演では、『帰る』に持ち込まれた「果物を食べる」といった動作すら排除され、俳優はほとんど動くことなく椅子に座って淡々とテクストを「読む」実践を行う形態となってきている。2021年の11月に京都、12月に東京で上演された『弁え』では、これまでモノローグのみを執筆してきた村社が初めて会話劇を書くに至った。『弁え』では従来にも増して、上演の場における“不確定性”が強調されるような設えが持ち込まれていた。それは、
①上演の場にいる観客に、相手役として一人の登場人物のテクストを読むような声かけ
②俳優も参加者も印刷された台本をもっての上演
③上演自体は、台本を区切りながら様々なやりとりが交わされながらの進行
といった三つの特徴から見て取れる。さらに、村社は近作で「椅子の制作」に力を入れていると語る。新聞家の公演は催しとしての性質を強く持ち、受付のフローや座席の環境整備にも手が加えられてきた—例えば、『フードコート』では、座席が植物の種類によって区分けされ、観客は受付で植物を選ぶことで座る位置が設定されるなど―。
村社は、稽古でも繰り返しテクストを「読む」ことのみを行っており、俳優の身体への指示は全く行わない(例えば「動かないでください」といったこと)。しかし、俳優が座る椅子や、観客の居方への目配せといったことは、環境を介して俳優の身体を規定しているようである。このような場において、テクストを「読む」俳優が座る椅子は、メディウムとして機能し、さらに観客も自身が上演の場へと参加していることを再度自覚化され、繊細に汲み出される声に自身のまなざしが影響を与えかねないことを意識するのである。
このような手つきは、村社がたびたび口にしている「テクストを汲みつくせないものとして扱う」という態度とも共鳴する。新聞家の上演という場が、「ズレ/落差/距離」が含まれたテクストによる“言葉”と環境によって規定される“身体”という、“不確定”なものの連続によってのみ成り立つように構成されている。
その点、岡田の上演で推し進められてきた方法は、「準備」の連続であったと言える。テクストという再現性の上で、さらに別の再現可能な「想像」という要素を持ち込むことによって「準備」の段階で〈言葉・身体〉の関係を構築する。観客によって見え方が変わるという状態は保たれているものの、俳優は「準備」し積み上げてきた行為を遂行するし、その限りにおいて上演の場が崩壊することはない。
ここでの議論は、現代演劇で形成された新たな〈言葉・身体〉という関係によって再度獲得した〈いま・ここ〉におけるフィクションをどのように扱うか、という点である。岡田の場合、テクストのほかに「想像」によって再現性をもった身体の現前が、舞台上のまさしく〈いま・ここ〉でフィクションを立ち上げていく様を見せる。そこに観客がまなざすことによって意味が生成されるという舞台構造的な、観客との対話関係という“ミクロ”な視点でフィクションが立ち上げられる。この営為は“言葉”と“身体”それぞれの「準備」を土台として成り立っており、あくまで「準備」によってつくられたテクストや身体の現象的なものが〈いま・ここ〉を実感させるような仕掛けが組み込まれている。岡田が自著『コンセプション』(2012,天然文庫,p27)にて、リアリズムやナチュラリズムを引き合いに自身の「超口語」が、舞台上の現象を現実へと肉薄させたふりをするための「隠蔽工作」と称し、いずれ限界を迎えるだろうと言及していたことからも見て取れる。
一方、村社の場合は、時空間的なレベルでの〈いま・ここ〉において「ズレ/落差/距離」を含んだテクストと向き合い、環境の整備によるゆるやかな身体の規定を行う。これは、舞台構造が包括するすべての現象が、「準備」し尽くせない“不確定性”の連続によって生じていることを土台としており、〈言葉・身体〉の関係が緊張を保ったまま、“言葉”も“身体”も決めきることは出来ず、演劇という営為自体が包括する“不確定性”に向き合う形でフィクションを成立させるような実践である。これは、まさに“アンチ・チェルフィッチュ”らしく、演劇という営みを対象化した“マクロ”な視点と言えるだろう。村社は、「準備」を露呈させ、“不確定性”に向き合うことはまさしく「隠蔽」を引き剥がすことでもあり、岡田が発展させた〈言葉・身体〉の関係を引き継ぎつつも、「まだやることがある」として次なる実践を行っているように見えるのである。
第三章 結論
[3.1.1 “現代演劇”の現在地]
ここまで“現代演劇”が出てきた構造的背景、その後の岡田利規と村社祐太朗による実践を主に取り上げてきた。何度も繰り返しにはなるが、“現代演劇”における革新性の一つは“言葉”と“身体”の関係の変化であった。〈言葉・身体〉という関係によるフィクションの構築は、「小説的言語」やリアリズムとはかけ離れた「身振り」の導入によってその実験が推し進められ、特に岡田利規の実践は、今日までの“現代演劇”シーンに大きな影響を与えたとされる。「「詩=文学」であるという自己完結的側面とパフォーマンスのために開かれているというふたつのアイデンティティがある」(内野)という文言からも読み取れるように、演劇が本来的に持っていた複合的な状態を保つために、“言葉”あるいは“身体”へと一元化することは徹底的に避けられ、〈言葉・身体〉という共存、さらには摩擦によって構成されるような上演は、いま現在多く見受けられる。“言葉”と“身体”の関係の変化は、そのまま観客との関係の変化にもつながり、演劇という営為自体を対象化する動きも見られた。
今回は、多大な影響力を持ちその演劇理論が広く浸透した岡田利規と、その影響の線上にいながら批判的に新しい上演を想像した村社祐太朗という二人の作家を取り上げたが、演劇における〈言葉・身体〉という関係は広く浸透しそれぞれの作家の手によってさまざまに発展している。
ここでは紹介にとどまってしまうがいくつか書き記しておくことにする。地点を主宰する三浦基はテクストのコラージュという方法を用いて、テクストが本来持つ以上の“言葉”と“身体”の力を表象した。スペースノットブランクの小野彩加/中澤陽は俳優の「日常性」と「本人性」から生じる“言葉”と“身体”をベースに、繰り返しに耐えうる強度を生むことでフィクション化したし、akakilikeの倉田翠に至っては、当事者を舞台上にあげることで舞台構造が孕むフィクションの生成機能を明るみにした点で、この両者が比較されることも少なくない。山縣太一が主宰するオフィスマウンテン、カゲヤマ気象台が主宰する円盤に乗る派などは、強度あるテクストを単語へと分解し、身体の諸感覚を単語と同程度の単位へばらしたうえでぶつけ合うことで、“言葉”と“身体”の共存/摩擦/主従関係を変化させながら、こちらも「ドラマ」(ウォーゼン)へと回帰するような動きがみられる。
上記したように、現在上演されている作品たちはそれぞれに特異な様相を持ち、一括りにして語ることは難しいが、共通点があるようにも見える。それは、フィクションに対する手つきである。ナチュラリズムやリアリズムなどに見受けられた、フィクションを現実らしく仕立て上げることはもはや放棄されたとも言える。舞台という構造がそもそも現前を前提としている以上、そこに潜む「隠蔽」(岡田)のいやらしさからか、寧ろテクストの構成や発語の方法、繰り返しによって〈言葉・身体〉の関係を強調することで、なにかを“やっている”ということそのものを露わにするようになったのである。その“やっている”ことによって表象されるものこそがフィクションであり、そこにはウソが入りこむ余地はなくなりつつある。その影響の一つか、ある世界を表象しているかのようなダイアローグは減り、モノローグとも違う、ナラティブが多用されるようになった。ダイアローグの場合も、観客に共感を呼び、感情移入させるような表現は減少し、キャラクターたちの関係の変化によって構造が変化することを表象する傾向になっている。さらには、観客の存在の上演の場での共在性はより注目されつつも、一方で上演自体の“繰り返し”という自律性も感じる体験が増えており、その感覚は分裂したものでありながら、舞台構造という視点から自覚的に扱うことで、舞台表現特有のフィクションを獲得しているともいえる。
“現代演劇”と呼ばれる上演たちが、現前によって晒される“言葉”と“身体”の関係を探り、隠された何かを生み出すことなく、「ドラマ」を描き、フィクションを成立させる取り組みとなりつつある。その様子は、映画とも小説とも詩とも違う立ち位置を明確化させ、演劇の原理に接近するような形態に見受けられるし、今後もその形を変えながら数多くのフィクションを生み出していくことだろう。
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参考資料
“現代演劇”の研究においてもっとも困難を極めるのは、それらがまさに“今・現代で”上演されていることである。参照できる資料が少なく、あったとしても個々の作品に対する批評が主なもので、横断的な研究資料などはほとんど見当たらない。
今回の研究にあたって足掛かりとなったのは、筆者が約3年にわたって実際に劇場に足を運んだ経験や、作家主催のワークショップ等に参加した際の記録である。そこで、本論文末尾の参考文献とは別に、付録的な位置づけとして、筆者が観劇した公演/参加したワークショップの記録を残しておくこととする。
[参考文献]
【書籍】
・伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(2021, 講談社)
・エリカ=フィッシャー・リヒテ『パフォーマンスの美学』(翻訳:中島裕昭ほか, 2009, 論創社)
・内野儀『詩は到来するのか?』(「現代詩手帖」2018.11掲載, 思潮社)
・岡田利規 戯曲『三月の5日間』(2004, 白水社)
・岡田利規『遡行:変形していくための演劇論』(2013, 河出書房新社)
・岡田利規『コンセプション』(2014, 天然文庫)
・岡田利規インタビュー『Part1 共振する演劇/パフォーマンス/アートの表現者たち』(美術手帖2018.08掲載, 美術出版社)
・岡田利規 戯曲『THE VACUUM CLEANER』(文学ムックことばとVol.2掲載, 2020, 書肆侃侃房)
・佐々木敦『即興の解体/懐胎:演奏と演劇のアポリア』(2011, 青土社)
・佐々木敦『批評時空間』(2012, 新潮社)
・佐々木敦『新しい小説のために』(2017, 講談社)
・佐々木敦『小さな演劇の大きさについて』(2020, Pヴァイン)
・平田オリザ『演劇入門』(1998, 講談社)
・村社祐太朗 戯曲『フードコート』(2020, 会場販売の上演台本)
【Web】
・内野儀『ドラマの再興に向けて―新聞家『帰る』(村社祐太朗作・演出)をめぐって』(2016, https://sinbunka.com/kaeru_uchino)最終閲覧日:2022.01.04
・岡田利規『〈映像演劇〉宣言』(2018, https://chelfitsch20th.net/)最終閲覧日:2022.01.04
・北野圭介『映像の中にいる彼ら。北野圭介が観た、「渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展』(2018, https://bijutsutecho.com/magazine/review/17310)最終閲覧日:2022.01.04
・現代美術用語辞典 ver.2.0(著者:渋革まろん)『“演出”』(2021, https://artscape.jp/artword/index.php/演出)最終閲覧日:2022.01.04
・現代美術用語辞典 ver.2.0(著者:木村覚)『 “貧しい演劇” 』(2021, https://artscape.jp/artword/index.php/貧しい演劇)最終閲覧日:2022.01.04
・現代美術用語辞典 ver.2.0(著者:渋革まろん)『“ポストドラマ演劇”』(2021, https://artscape.jp/artword/index.php/ポストドラマ演劇)最終閲覧日:2022.01.04
・小高大幸『総決算(かそれか)∞円のビニール袋』(2020, https://sinbunka.com/fcac_c1)最終閲覧日:2022.01.04
・渋革まろん『新聞家の〈源-風景〉/新聞家『砂漠』について』(2018, https://note.com/marronbooks/n/n5ef1dde7adf7)最終閲覧日:2022.01.04
・Shinya Watanabe『マリーナ・アブラモビッチ「Seven Easy Pieces」@グッゲンハイム美術館 まだ見ぬ他者を探して』(2005, http://www.shinyawatanabe.net/category/writings/page/2)最終閲覧日:2022.01.04
・谷繁玲央『「理想」演劇へ向けて』(2020, https://sinbunka.com/fcac_c2)最終閲覧日:2022.01.04
・村社祐太朗インタビュー『異様な適応が起こることを未然に防ぐ/インタビュー 村社祐太朗 Vol.6』(2021, https://spinner.fun/article/series/zipped/4138/)最終閲覧日:2022.01.04
・村社祐太朗×山縣太一×横田僚平『『体操させ、られ。してやられ』ゲストトーク』(2021, https://m.youtube.com/watch?v=PPBGP1s
oiIE&t=2077s&pp=2AGdEJACAQ%3D%3D)最終閲覧日:2022.01.04
・山﨑健太『渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉』(2018, https://artscape.jp/report/review/10146346_1735.html)最終閲覧日:2022.01.04
・山﨑健太『新聞家『屋上庭園』』(2019, https://artscape.jp/report/review/10154935_1735.html?fbclid=IwAR0A
st0pLIbaF6EqrGf41h9OrIbCEKyICorY64WnG1K2kmQmn0n5c6xmUzA)最終閲覧日:2022.01.04
・山﨑健太『チェルフィッチュの〈映像演劇〉『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』(2021, https://artscape.jp/report/review/10169301_1735.html)最終閲覧日:2022.01.04
[付録 観劇(・)/参加ワークショップ(—)記録]
・2019.03.06 岩井秀人『世界は一人』@東京芸術劇場 プレイハウス
・2019.03.30スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス ワークインプログレス』@スパイラルホール
・2019.04未明 ままごと『わが星』@記録映像
・2019.05.11 スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』@シアターバビロンの流れのほとりにて
・2019.05.12 ヌトミック『お気に召すまま』@こまばアゴラ劇場
・2019.06.14 スペースノットブランク『すべては原子で満満ちている』@こまばアゴラ劇場
・2019.06.16 ムニ『メモリー』@中野RAFT
—2019.06.24/07.01 新聞家『家族の機縁』@森下スタジオ
・2019.07.06 松尾スズキプロデュース 東京成人演劇部『命、ギガ長ス』@ザ・スズナリ
・2019.07.07 コココーララボ『助走』@神保町試聴室
・2019.08.09 円盤に乗る派『清潔でとても明るい場所を』@北千住BUoY
—2019.08.10 武本拓也『正午のすがた』@リトルトーキョー
・2019.08.19 ゲッコーパレード『ファウスト』@旧加藤家住宅
・2019.08.30 劇団あはひ『ソネット』@北千住BUoY
・2019.08.31 東京夜光『ユスリカ』@小劇場 楽園
・2019.09.01 青年団リンク やしゃご『アリはフリスクを食べない』@こまばアゴラ劇場
・2019.09.01 ELEVENPLAY『Nu.』@スパイラルガーデン
・2019.09.07 犬飼勝哉『ノーマル』@三鷹市芸術文化センター 星のホール
・2019.09.23/11.16 新聞家『フードコート』@TABULAE
・2019.09.23 贅沢貧乏『ミクスチュア』@東京芸術劇場 シアターイースト
・2019.10.08 ゆうめい『姿』@三鷹市芸術文化センター 星のホール
・2019.10.29 今泉力哉と玉田企画『街の下で』@こまばアゴラ劇場
・2019.11.04 ウンゲツィーファ『動く物』@ウンゲ荘(公演時、主宰の自邸)
・2019.11.09 NODA・MAP『Q:A Night At The Kabuki』@東京芸術劇場プレイハウス
・2019.11.12 オフィスマウンテン『NOと言って生きるなら』@STスポット
・2019.11.21 青年団リンク キュイ『景観の邪魔 Aプログラム』@こまばアゴラ劇場
・2019.11.22 情熱のフラミンゴ『オー・プラテネス ~汝はどこにいる~』@アトリエヘリコプター
・2019.11.29 きゅうかくうしお『素晴らしい偶然を散らして』@横浜赤レンガ倉庫
・2019.12.03 inseparable『変半身(原案:村田沙耶香、作・演出:松井周)』@東京芸術劇場シアターイースト
—2019.12.09 オフィスマウンテン『オフィスマウンテンのWS』@STスポット
・2019.12.20 ヌトミック『アワー・ユア・タワーズ』@CLASKA The 8th Gallery
・2019.12.28 堀企画『トウキョウノート』@アトリエ春風舎
・2020.01.10 宮崎企画『つかの間の道』@アトリエ春風舎
・2020.02.10 ヌトミック『それからの街』@STスポット
—2020.02.21/23 バストリオ『ケ配、ヨ韻』@葛飾区公民館
・2020.02.27 新聞家『保清』@森下スタジオ
・2020.03.06 ゆうめい『弟兄』@こまばアゴラ劇場
・2020.03.11 小田尚稔『是でいいのだ』@SCOOL
・2020.03.17 スペースノットブランク『ウエア』@新宿眼科画廊
・2020.03.30 財団、江本純子『わたしを信じて』@104GALERIE-R
・2020.07.12 『プレイタイム(構成・演出:梅田哲也)』@シアターコクーン(配信)
—2020.07.20/23/27/30 鳥公園『2020年に『2020』(作:西尾佳織)を飽きるほど読む(ファシリテーター:和田ながら)』@オンライン
・2020.08.15 スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』@こまばアゴラ劇場
・2020.08.21 東京夜光『BLACK OUT』@三鷹市芸術文化センター 星のホール
・2020.09.25 五反田団『いきしたい』@こまばアゴラ劇場
・2020.09.26 櫻内企画『マッチ売りの少女(作:別役実、演出:橋本清)』@アトリエ春風舎
・2020.10.24 犬飼勝哉『給付金』@SCOOL(配信)
・2020.10.28 バストリオ『縄文のはじまりとおわり』@配信
・2020.10.31 円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』@配信
・2020.11.22 小田尚稔『罪と愛』@こまばアゴラ劇場
・2020.11.24 ハイバイ『投げられやすい石』@東京芸術劇場 シアターイースト
・2020.11.26 akakilike『眠るのがもったいないくらいに楽しいことをたくさん持って、夏の海がキラキラ輝くように、緑の庭に光あふれるように、永遠に続く気が狂いそうな晴天のように』@市民文化会館キラリ・ふじみ
・2020.12.23 チェルフィッチュ『アウトラップ』@配信
・2021.02.07 円盤に乗る派『流刑地エウロパ』@北千住BUoY
・2021.02.27 木ノ下歌舞伎『義経千本桜』@世田谷パブリックシアター
・2021.03.13 チェルフィッチュ『三月の5日間 リクリエーション』@KAAT
・2021.03.15 宮崎企画『忘れる滝の家』@アトリエ春風舎
・2021.04.19 ロロ『いつだって可笑しいほど誰もだ誰か愛し愛されて第三小学校』@アトリエ春風舎
・2021.04.20 飴屋法水×山川冬樹『キス』@北千住BUoY
・2021.05.14 かまどキッチン『海2』@新宿眼科画廊
・2021.05.21 ゆうめい『姿(再演)』@東京芸術劇場 シアターイースト
・2021.05.27 玉田企画『サマー』@下北沢小劇場B1
・2021.06.15 スペースノットブランク『ささやかなさ』@SCOOL
・2021.06.16 岡田利規『未練の幽霊と怪物』@KAAT大スタジオ
・2021.06.20 ウンゲツィーファ『トルアキ』@図鑑house
・2021.06.30 倉田翠ソロ@d-倉庫
・2021.07.04 福井裕孝『デスクトップ・シアター』@ロームシアター京都ノースホール
—2021.07.22-24 バストリオ『緑の中の緑』@カフェムリウイ
・2021.08.22 ムニ『カメラ・ラブズ・ミー』@こまばアゴラ劇場
・2021.10.22 ヌトミック『ぼんやりブルース』@こまばアゴラ劇場
・2021.10.26 武本拓也『山を見にきた』@ゲーテインスティチュート東京
・2021.11.06 ぱぷりか『柔らかく搖れる』@こまばアゴラ劇場
・2021.11.22 新聞家『弁え』@THEATER E9 KYOTO(配信)
・2021.11.23 ロロ『Every Body feat.フランケンシュタイン』@東京芸術劇場シアターイースト(配信)
・2021.11.27 Dr. Holiday Laboratory『うららかとルポルタージュ』@北千住BUoY
・2021.12.17 宮崎企画『東京の一日』
・2021.12.10 飴屋法水×倉田翠『三重県新宿区東九条ユーチューブ温泉口駅 徒歩5分』@配信
・2021.12.22 ゆうめい『娘』@ザ・スズナリ
・2021.12.24 新聞家『弁え』@スパイラルホール
・2021.12.24 山縣太一ソロ『内側を迂回しながら』@スパイラルホール
・2021.12.26 ルサンチカ『GOOD WAR ワークインプログレス』@こまばアゴラ劇場
合計 観劇75本、参加ワークショップ6か所