プライベートパーティー/よく熟れた桃のうぶ毛を手ではらう 

調理をするときはできるだけ手数が多くなるものを選ぶ。大きさを揃えて切る、焼く前に茹でる、油で揚げる、温度を保つ、別の味付けをしてから和える。次第に手つきが、ある一皿の料理から引き抜かれて、別の食材への手へと移っていく。キッチンは、加工と組み合わせで遊ぶためのアトリエ。

操作の組み合わせが格段に増える。どの食材を選ぶか、どのように処理するか、どのスパイスを合わせるか。すべてを混ぜ合わせることはない。ひとつずつ選び取って、ところどころ歪に組み合わせてみる。二層がバラバラにほどける、ところどころ濃くなったりする、遅れてやってくる。手を加えていくごとに、皿の中の味と香りがリズムを持ち始める。液体への執着もある。口に入れたとたん隙間なく触れる。テクスチャ、におい、味が内臓の皮膚に貼り付いて染み込んでいく。ときに外気へも意識を向ける。晴れの日のほこりっぽい空気、小雨が降る日のほんのり甘い空気、冷たい日の張り詰めた空気。口に運ぶときに一緒に入ってくる、その空気に組み合わせることもできる。春巻きを、「春を巻く」と誤読することだって楽しい。

culinaryという言葉を知った。ひとつには調理における技術、つまり切るとか煮るとか(本当はもっと専門的なことのたくさんの技)を指し、もうひとつには調理を用いた技術を指す。うしろにartをつけることで、調理をメディアにした芸術表現を指すことができる。食べるのが勿体無いとさえ思えるような料理、culinaryの技術が集まった美しさ、皿の上にひとつの景色が立ち上がっていて、それを口にする歓びはとても大きい。でもそれは目指さない。あくまで、ごはんをつくるという運動体が表現になっていく等身大のculinary。

コース料理のフォーマットを借りて、飲食店のフリをしながら上演に接近する。温度、味、色、時間、量。一皿のなかのリズム、皿が並ぶことによるフロー。重要なのはフィクションではないこと、ごはんを食べるということは本当であり続ける。サーブによって紡がれていく関係性、順番に食べることによって起きるかもしれないおいしい以外の体験。自宅はすでに自宅ではない場所になっていった。おとずれる人が外の気配を連れてくる。円卓の端っこが入り込んだようなテーブル、そこに座ると隣り合う人と遠くのほうで視線が交わる。食事があるから招くことができる、ひとつのテーブルを囲むことができる。

ごはんをつくるわたしがいる。わたしはごはんをつくる。わたしは食物アレルギーをもっている。食物アレルギーがあるわたしの喉にりんごと桃が触れたら、ピリピリとかゆくなって、気道がしまってしまう。この、食べ物が喉に触れてしまう感覚から出発する。わたしが作った料理を喉に通したら、わたしにおとずれる皮膚感覚と同期することができるかもしれない。擬似的に、感覚を追いかけるためのパフォーマンス。皮膚、わたしの肉と骨を包んでいる。汚れても拭き取ることができる。指先からいくつかの関節を通って、口の縁で表と裏がひっくり返って喉、胃の方までつながっていく。その身体のチューブを通すイメージ。液体、いっしょに吸い込まれる空気、咀嚼によって大抵のものはやわらかくなる。飲み込んで通るまでの味と香りを組み立てるための手数。食べる、身体にそれを起こすことができる。食卓、その場限りの、一時的な、テーブルは舞台。

2020年のあの閉塞感はいつまでも覚えている。今、たべられる、の方にいる。次は、ごはんを振る舞うという動きそのものを取り出してみる。わたしがごはんをつくる、その場所が、舞台になる。それをたべる人がいる、その場所が客席になる。道端でも構わない。返礼、宴会、治療。スーパーマーケットはお金を払ったらここにあるもの全部を使っていい、アトリエの拡張。家がなくなった、場所を構えなくなって、仮設だったことすらも置き去りにしてどこまでもいく。
2025.10.23


このまえ、阿佐ヶ谷のシンチェリータで食べた「梅」のジェラートは、本当に久々の味だった。

小さい時にアレルギーが発覚してからというもの、バラ科の食物は事故(あるいはギャンブル)のときを除いて、ほとんど口にしてきていない。わりと重度で、血液検査の項目に含まれていた「桃」と「りんご」は5点満点中5点。「桃」に至っては数値上は5点だけれど、隣にあった棒グラフは枠を大きくはみ出していて、検査結果の紙を一枚おおく受け取ることになった。

症状としては、喉のかゆみ、皮膚の腫れが現れる。満点を叩きだしてからは「桃」をそのまま食べることなんてなかったからわからないけれど、気道が狭まるとも言われている。だから、最近はめんどくささでしなくなっているときも増えているのだけど、外食のときはたいてい、抗アレルギー剤とエピペンを持ち歩いている。複数回、一緒に食事をすることになる人には、エピペンの使い方のレクチャーとぼくが「救急車を呼んで」と言ったときはそれが冗談ではないことを伝える。

「りんご」は、すりおろしたものが入っていることが多いから、最初のうちはよく事故で摂取したりしていた。コンビニで買ったメンチカツに、ソースを付けられないと分かった時は相当落ち込んだ記憶がある。

10年近く、怪しいときは成分表示を見たり、なんとなく怖いときは避ける、みたいなことをしていると、食べていないのにだんだんその味がわかってくる。口に入れたときに、あの酸味と甘味が程よく混じった華やかな香りがすると、とたんに、からだは嚥下を拒否し、吐き出してしまう。このまえも、山査子サワーをひとくち飲んだだけでからだが変な感じになって、交換してもらった(さすがにお店だったので吐き出しはしなかった)。帰り道で調べたところ、「山査子」もちゃんとバラ科だった。

なにかを食べることは、からだの内部になにかを取り込むことだということが、なんとなくずっと意識にあったんだと思う。蕁麻疹が出る、みたいな症状だったらこんな意識になったかは分からないけれど。確実に内側で、しかも気道という生命活動に必要な部分が変わってしまう可能性がある状態を抱えているから、「桃」が胃の中でなにかに触れてくる、ということが常に意識された。そして、最近は、味やにおいでそれが判別できるようになってきて、そのときに、この質感で触れたい、と思ったのだった。

『手の倫理』(著:伊藤亜紗)で、「接触」の歴史について説明するところがあって、「視覚は対象と距離が取れるから安全で、嗅覚や味覚は対象と直接的に触れ得るから危険」みたいなことが書かれてあった。味はもちろんのこと、においを構成する物質が、からだ(この場合は鼻腔)に触れることで初めて認識できる、ということだと思うのだけど、かなり納得した。

口に入れるものをつくっているとき、嗅覚と味覚のことばかり考える。ひとに何かを食べさせるとき、どうしても触れてしまう内部のことを気にしないわけにはいかない。あまりにも感覚に直で触れる。組み合わせを考える試作を「味覚コントロール」とふざけて呼んでいるのは、食べさせる人の感覚を、そのまま(まさしく)触って操作することにつながっているように思えるからだ。この、感覚に手ごと突っ込んで触る、みたいなことを、ずっとやりたかった。

「梅」を食べて思い出してしまった、あの酸味と甘味が程よく混じった華やかな香りを、どう使おうか、ずっと考えている。
2022.08.19