2026.03.31
変な天気。窓を開けて外を見ると大きな川が流れているみたい。東京に戻ってきている間に進められる仕事をと打ち合わせなどが詰め込まれている。身体がそっちの方に引っ張られすぎないようになるべく重心を保ったまま、でも目の前のことに集中して話をする。夜、久しぶりのオオゼキ、スーパーを歩くのは楽しい。松本で食べたビリヤニのことを思い出しながら、作り方を変えてみる。できるだけ水分を飛ばしたマサラをつくる。スパイスはいくつかの種類が同時に底を尽きるから不思議だ。スペアリブを入れて、弱火で火を入れ、香りをつけた米を入れる。もう、レシピや分量を見なくても、状態を見ながらつくれるようになっていった。この感覚。稽古になると忘れてしまっていたけれど、こういうことをやっぱり引きずって入っていく方が性に合っているような気がする。できたビリヤニは、人生で食べたものの中でもかなり上位。ホテル暮らしのときに欲していたスパイスの香りと味を十分に摂取する。大きな袋のトマトを買って作ったなんちゃってラッサム。スパイスを食べると必ず咳がでる人。
2026.03.29
変な夢を見て起きる。娑婆のメンバーだけがいる、電車の時間がまちがってるとかなんとか騒いで、急に動き出して、止まって、起きた。夢も現実もあんまり境目がないような気分になりながら帰り支度をする。倉田さんは舞台と現実が変わらないという話をときどきする。
娑婆、第1タームのリハ最終日。この数日間で潜ってきたところの感触をちょっとずつ引き摺りながら、もっと入る、もっと戻る、通り道を濃ゆくしていく。おそらく飼い慣らされた、社会に馴染んでいる時の自分では隠れているもの、初めて開く扉をちょっとずつ開けていくみたいな感じ。舞台やからやってもいい、舞台やからやっちゃだめなこともある。立つだけで精一杯、のところから、自分の身体のことを知っていって動き出せるのかもしれないという予感がちょっと生まれて終了した。
リハ終わりに本番の会場となる小ホールを見て、横に並んで、初めて自分たちを客観視して、こういう感じなんやねと笑う。たぶん普通に笑えてる。楽しみになってきた。しばらく東京で生活に戻って、もう一回松本に来るときはもっと遠いところに行く話になってる。
2026.03.28
欲の向こう側、触りたい、触ったらそこにあることがわかる、いつから見失ってたっけ? 刑務所の中にいる人、そのままどうだっていいということ、その皮膚が何を包んでるんか知りたい、同時に自分の話でもあった。刑務所の外にいる人も同じ、裸みたいになれてる人たちを見る、一緒に立てるんかな、自分ってどこ? そのどっちもを、使う、という話。本当がどっちかという話ではないし、どっちがいいとか悪いとかでもない。あるって認めること、そんでそれを使うということ。自分を守りながら、全部出してるみたいな。舞台に立つというときの話。でも肌はある、だから触りたいんやとおもう。大丈夫、生きてる。
2026.03.27
四日目。まだ、やし、もう。滞在性作はこの速度感になることがうれしい。朝から野菜と納豆と味噌汁、家にいるときには食べないものをなるべく選んでいる。松本の街には川が流れていて、女鳥羽川は渓流の様相の細い支流という感じで、ちいさいながらも比較的起伏がはっきりしている。晴れたのでみに行った。大きな鯉のような魚が、少し深くなったところの岩の隙間、尾鰭を出しながら滞留していた。どうやってここまできたのだろうかと思う。身体がちいさいときに入って、そこで育って、大きくなって出られなくなったとしたら? 勝手にイメージが重なる。あそこにいた人たちのことをうまく思い出せない。そりゃそう、2回しか見てない。
昼過ぎからリハ、もう大丈夫って感じですぐ始まる。身体がすこしだけ軽い気がするけれど、相変わらずお腹の調子は悪い。もしかしたら春のせいかもしれない。ここまでで蓄積してきたことで即興的にやってみましょう、セッション。今日はよく刑務所の中のことを思い出す時間があった。でも、ずっと自分たちのことをやってるからなんでかはわからない。刑務所の中に入ったときの緊張感、その身体を見て自分の方を考えること、跳ね返ってくる、だから自分たちのことをやったらそっち側にアクセスしてしまうのかもしれない。娑婆、こっち、あっち。線を越える。越える時の、足。
2026.03.26
起き抜け、どうせ起き上がってもベッドしか居場所がない程度の空間なので、ジャン・ウリ『コレクティフ』を読み進める。雑音がないので本を読むことの困難が少ない。東京という場所から身が引き剥がされている。インターネットも徐々に不要になってくる感覚。ただ、ここではあまり生活をしていないからこういう時間が流れているのだと思う。
昨夜約束をしていたのでBABAじぃというカレー屋にいく。11時開店のタイミングに合わせて行ったけれどすでに並んでいた。男3人で囲む天板が大理石のテーブル。魚ビリヤニのフルサイズをシェアして、それぞれでカレーとナンのセットも頼んだ。こうして自炊から離れると、いかに日常的にスパイスを摂取しているかがよくわかる。コンビニにはあまり食べたいものがない。
リハ3日目。かなり早い速度で解像度が上がっていく。そっち側に行く練習、本当にそれを起こす回路。具体的な指示にある程度こだわりながらも、自分で自分の状態を知ってつくっていく。知ってる感覚の訪れ。人の身体を見ていても自分のことがわかってくることは、塀の中にいたときとほとんど同じだなと思う。反射、跳ね返ってくるということと、速度でいくこと。人の身体をうらやましいと思いながらも、自分は、ということが常にあって、声をかけることじゃないやり方を見つける。そしてふっとまた戻ってくる。その横断、やっぱり移動やと思う。
2026.03.25
できるだけ何事もないように過ごす。納豆とサラダと味噌汁を食べて、本を読み、床がないから仕方なくベッドの上で横になって過ごす。ビジネスホテルでの宿泊は別に嫌いじゃないけれどうまく過ごせることはない。昼に劇場へいく。今日も大きな窓から山が見える、雨が降ってすぐに霧がかかってしまった。顔が配られてるし、SNSをスクロールすれば何度か出てくる。自分の顔。
肌をくっつけて、その感覚が自分の身体の方に入ってくる、そのままそっち側にいくこと。当たり障りのない、あまりよくないときの音で声が出てるから知ってた。だから肌の話はそっち側にいくための踏み場、踏み場をリハーサルで使う、それでそのまま行く、結局同じ、同じじゃない。二日目でもうこれ。ずっと移動の話を思い出してる、そうやって渦中に飛び込むこと、そのまま保存してくれ。この3ヶ月はおそらくずっとそのことの準備をしてきたんやろうなと思うし、間違ってなかった気がする。昨日よりもちゃんとぐるぐる回ってる頭のままコンビニでご飯を買って帰って、また何事もないように過ごした。
2026.03.24
4回目の特急あずさ。山を通り抜けるたびに揺れが強くなってつらいので薄っすらと目を瞑り眠る(眠らない)。しばらくして目をあけるとすでに山々、頂上の方にまだ雪が残っているのが見える、脈打つ山々。『娑婆 身体表現クラブ』という名前、少年刑務所のことをやる、2回だけ見学に行った、捉えどころのない顔、同じ話、肌のことが気になる、触りたい、最近は胃腸の調子がわるいという話をした。膨らむ呼吸と、自分とピッタリ同じ大きさの自分。久しぶりに身体を動かす、という感覚でうれしい! お腹の調子によって支配される身体、できるだけ想像とかしない。山を見ても、山やなと思うだけ。
2026.03.05
起き抜けにイヤホンを繋ぎオンラインミーティングのリンクをタップする。まだ何も整っていない身体なのでカメラはオフにしたまま、冷たい水をのみ、動きはじめてすぐの頭で話し始める。演劇の本番が近づいてきたらいつもこうだ。寝て起きても、さっきの続きのように話し始めている。この感触のことは嫌いではないけれど、冬から春への移り変わりの時期とは相性があまり良くない。目に入るニュースは、動き続ける頭の、中心部分にすぐ入り込んでくる。そのことに身体を引っ張られすぎないように、できるだけ文字を眺めるようにスクロールする。近所の喫茶店でモーニングをかねてお茶をする。仕事の話、目の前にある状況をひとつずつ聞き出しながら整理をして、今後の方針を立てる。今後、とは具体的にいつまでを指しているのだろうか。最近は遠い土地、遠い時間のことを、想像するのではない形で考えるやり方を探している気がする。目の前のことと、目の前ではないこと。
夜、《円盤に乗る派》の通し稽古があるので見にいく。新作『「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」』は、オペラ『トリスタンとイゾルデ』を下敷きに近未来の物語として描き直される。「たましい」という存在が科学的に解明され、エンジニアという肩書きの人たちが「たましい」の事業に関わっているという設定である。パソコンを閉じ、2回目なのでできるだけ何も知らない身体をつくって、見る。
この劇には、「薄さ」のように感じるものがあって、劇の推進力はまさしく劇が運ばれていることによって生まれているように見える。だから、どう展開するのかを想像したりする気持ちにあまりならない。ただ、隣の部屋でつけたテレビに映っているニュースやバラエティ番組の音声だけが漏れ聞こえてくるような、顕微鏡でのぞいてる微生物の運動のような「起こらなさ」がある。流れていく大きな時間と、その中でもがいている小さな「たましい」の集まり。だから、ときどき現実にぴったりとリンクしてしまうような出来事が語られるとき、そしてそのことの大体が「あの場所」で起きていると指されるとき、わたしの身体が「起こらなさ」の渦中にいることに、皮膚がジガッとする。言葉はいつもこちらを向いている。
隣接する身体の方にこそリアリティがあることをすでに知っている。自分のことはよくわからない。今朝もちょうどその話をしていたのだった。わたしが見聞きするのではなく、そこにある身体が何かを話し始めるとき、ようやく想像とは別の回路が作動し始めるのかもしれない。それがフィクションでもありながら、その言葉がこっち側の世界に刺さってくるとしたら、ぼんやりと曇ったレンズのような質感のままもう一度見始めることができる。
2026.02.23
ミモザを切った。地面に張った、心臓のような太い根を切断したときからダメかもしれないと予感していた。その背丈に似合わない、けれど十分な大きさの鉢の中でしっかりと立ちながら次第に軽くなっていく。叩くと、乾いた音がするようになった。表皮は薄黒く、脈を打ったような模様が浮かんでいる。それなりに時間がかかるくらいには太くなっていた。知り合いの、お店をつくるときに吊るし木の制作を行ってくれた人に連絡をする。小さなスプーンにしてもらうことになった。ベランダに出ると視界が広い。足元には葉っぱがある。
昼前に新しい苗木が届いて、苗木らしいその見た目。種類の違う土を3種類と肥料を1つ抱えて渋谷の街を歩く。電話に出られなかった。鉢を一度ひっくり返し、土を混ぜながら戻していく。果樹は栽培が難しいらしいので慎重に説明を読みながら、爪のあいだに土を挟ませながら、手のような形の、すこし乾いた葉っぱがつくことを想像する。炭で真っ黒。同じ手で、フォカッチャを焼く。人のためのごはんをつくる。1パック分のいちごジャムは小さい瓶2つ分。春一番。夜はあたたかさを喜んで、ほどほどに散歩をした。