2025.10.19
15日から京都に行き、昨日の夜行バスに乗って東京に戻ってきた。『不可能の限りにおいて』という戯曲のリーディング公演でフェスティバルに参加する。昨年の京都での上演がきっかけに縁がつながってまた京都にこれたことが嬉しい。戯曲は、人道支援者たちへの取材から構成されていて、単純なストーリーやわかりやすいドラマがあるのではない、当事者たちの声の積み重なりでできていた。とても距離がある、自分はこれらのことに対して直接話し出すことに二の足を踏んでしまう。だからまたごはんをつくった。遠いところへ飛ぶための、一番近いところへのジャンプ、手を動かすことが感覚だけじゃなく考えることも引っ張ってくる。この場所でできることの断片を重ね合わせて、なにかになりきらない状態でそこにいるという時間。自分にこのことを読む権利があるのか、この音でほんとうにいいのか、この言葉を発した人の手や喉を想像することから輪郭をたどる、自分の皮膚の分厚さが鬱陶しい、もっともっと分厚くしながらそうして触れる?
いい人たちと出会う。遠隔で打ち合わせを重ねていざ合流、本当にいい人たち、これからも仕事をしていきたいという予感がずっとある。つくったごはんに興味を持ってくれて、鍋をまわす、ヘラでつっつく人、おいしいの声。即席の食卓ができるから起こる。起こるから起こるし、起こそうとするから起こる。ここが劇場なら尚更、編み直しの端っこのほう。
2025.09.10
いつもと逆の方向の電車に乗り立川まで向かう。そこから特急あずさに乗り換えて松本へ向かう。約3時間の電車移動はかなり山道を進み、普通に気持ち悪くなりながらまとまった時間が必要な作業を進める。
松本市民芸術館、想像していた以上にとても綺麗なホールで、直接は初めての人にあたたかく迎え入れてもらう。すでに始まってるみたいに話し始める人。
松本少年刑務所の身体表現クラブの見学。つるっとした壁がぐるっと囲んでいるが、鳥は関係なくその境界線の上をのらりくらり飛んでいた。何度か鍵を開けるのに失敗して弱いサイレンが鳴り続ける。受刑者をみるのははじめて?という問い、見る?
知らない人、過去におそらく犯罪を犯した人たち。年齢がわからない。みんな同じように頭を丸めていて、明るい緑色の服をきている。話し始めたら一瞬だった。監視をする人が空間の細部に意識を張り巡らせている。じぶんの身体がそこにあることを感じることができるのはその人が見ているからだった。受刑者とは直接交流をしないでください、話しかけないように、ただ見学というだけです。受刑者たちの身体がぎこちなく動くのをみて、自分の身体との違いがわからなくなる。とけるとかではない、肌と肌が同じ空間にあって、離れている。決して近づくことがない距離がある、つながっているのに透明なガラス越しで見ている見たい。一瞬でもあった目はすぐに逸らされる、こちらが何を見ているか気になるけれどそれがよくないことのよう。身体の輪郭がはっきりしているようでぼんやりしている、ケーキを三等分できないから?ゆがめられた重力に触れている、触れたい、と思ったときに倉田さんが直接触った。その皮膚の触り心地、だれかを殺したかもしれない手、薬が通ったかもしれない喉、ぎこちなく分厚い、そして消えてしまいそうな輪郭。窓には格子状の柵が付けられていて、その向こうで青暗くなっていく空をうまくみることができない。この人がなにをしたのかはあまり興味がない、いま何を考えている?どうしてそこにいる?その身体とこの自分の身体の違いはなに?交換するとかでも、想像するとかでもない、物理的な距離としてその隔たりと隔たりのなさを考える。
2025.09.07
朝から稽古、家のことはほとんどできないまま家を出る。明け方に一度目が覚めた時に水をがぶ飲みした記憶があるけれどあれは本当だったんだろうか。バストリオが10月に京都で上演を行う作品の稽古初日。リーディング公演、しかも現代演劇の翻訳戯曲ということもあり、テキストを声に出して読みながらひっかかるところやどのようにやれるかという案をざっくりと共有していく。内容はあまりにも悲惨な、意味を一身に引き受けてしまうことだけになってしまいそうなものと、文字に記録されて翻訳されているという遠さ、作品として構成された手つきのうまさのことなど、重たくならずに軽やかな会話が行われるが心のどこかはずっしりと重たい。
帰りにスーパーにいって買い出し、家に戻ってデリバリーのラープをつくる。梨をもらっていたので枸杞梨湯も一緒に作って持っていこう。業者のようにつくるキッチン、一瞬にして東南アジアの匂いになる。お惣菜として日持ちをするように水分と味付けの分配をコントロールしながらつくっていく。culinary art、最近出会った言葉で、自分の活動を言い換えるならこれだという気持ち。SNSにそのことを投稿した。
洗濯も終えちょうど落ち着いたところで連絡があり、ラープを持って家を出る。明大前で合流して歩いて帰る。とても大丈夫そう、ずっとニコニコしていて、でもヘロヘロで、とにかく楽しかったということを同じように繰り返してしゃべっていた。お疲れ様と何度も声をかけ、アイスを奢って、また同じように話をきいて、大丈夫じゃないという気配を一瞬も悟らないうちにお風呂に入らせてこの日記を書いている。明日は出勤。
2025.09.06
重たくなったからだをなんとか起こして立ち食い朝ごはん、洗濯物だけかろうじてまわし柴又へ行く。稽古の様子をみながらするすると作業をすすめる。なににも集中していない、けれど集中している時間。ここ数日の日記をまとめたり、どんどんやってくる連絡を打ち返したりしていた。8時間のほとんどを作業に充てほとほとで帰宅。電車に乗っている時間が長いし、まちがえて空腹になってしまったので辛い移動だった。本を読むこともできない。日記を書いていると次第に文章を打ち込むという習慣ができてきて、しばらく取り組めていないテキストの執筆ができそうな気がしてくる、いい調子。最寄駅で10日の松本行きのきっぷを買い、日高屋でお腹いっぱいになり帰宅。あした朝に寄ろうと思っていたパン屋は知らないうちに閉店していた。
2025.09.05
台風の影響による低気圧に備えていたけれど二人とも案外すんなりしている。連日遊び過ぎたからなにもしないことにして家でしばらく過ごし、歩きたくなったので下北まで行ってバインミー。その後トロワ・シャンブルで3時間お茶をする。ここ数日のこと、一緒にいることにした日からの出来事、これから少し先のこと、目の前のこと、わたしとあなたの関係性のこと、全部をないまぜにして話し続けて、似たような体調が悪い人・そのひとの隣にいる人になにか伝えられることがあればということで本をつくることになった。家に戻り、復職のための作業をする人を見守りながらゴロゴロする。外は気づいたら晴れ間がみえている、電気をつけなくても過ごすことができる部屋、徐々に相手の輪郭が闇に溶けていき、触れているこの手がその輪郭・温度・息遣いのことを確かめる。ぜんぶぜんぶいい方向にいく、ぜんぶとしか言い切れない、こうして過ごした数日間はきっと13分か14時間の映画になる。どのショットからはじめられるだろう。うれしいという気持ちがこうしてはっきりと訪れた日を思い出せないくらいに忘れていた。さっと丸亀製麺で晩ご飯を食べて解散。
夜は吉祥寺でお酒をのみ、ずっと開きっぱなしの頭のままだったとおもう。明日からまた働き始める。
2025.09.04
差し入れのタルトを持って数分の会話、ADDAのカレーをはじめて店内で食べる。ちいさな炊飯器からダルがとろとろになったものを取り出す手。
束の間のお茶のあと三鷹に行き、いいへんじ『われわれなりのロマンティック』をみる。この作品/団体が果たそうとしている役割があること、それが広く伝わる形で達成されていることにまずは安心する。一方で、そこにはない手触り、超えられない線のことばかり考えていた。もうすこしこっち側に来てくれ、そのような無害さで記号になりに行かないでくれということ、そして俳優に期待し続ける2時間。おそらくこれは手を取り合うことができないような気がするという絶望に似た気持ち。別のやりかたじゃないとやれないこと。下北沢にもどり再びお茶をする。風と雨の気配を感じて早めに家に戻り、また長く話してねむる。
2025.09.03
健康診断はサクサクスタンプラリー。目の前で記入された身長や体重すらも10月の中旬にわかるらしい。身体から出てきた血は血の色がして真っ赤だった。急に思い立った差し入れのためにもう一枚タルトを焼く。クリームの部分にカルダモンのパウダーを入れた。
夜はkanekoayano『石の糸』リリースツアー。途中から何をみているかわからなくなった。なんで音がでているんだっけ、なんで光は光っているんだっけ、ギターはどれくらい強く弾いたら弦が切れるんだろう、この人たちはどうしてあつまっているんだっけ、練習はどうやってるんだろう。音も光も激しくなって飲み込まれていくような瞬間が後半にかけて重なる。それぞれが自律的な、バラバラなサイクルで生きている、でも同時にだれかと集まる約束をしてこうやって時間を共にしている。集まってみんなでまとまるだけのやり方じゃない、引っ張り合うような極端な形でも一緒にいることができるのだと、やはり何をみていたのかわからないことばかり考えていた。終わりごろ、隣でみていた人は観終わってから「ぜんぶわかった!」と言うのだろうかと想像して、ほんとうにそのままの言葉が口から出てきてケラケラと笑った。夜は下北沢で都夏にいってお酒を一杯と、季節の野菜でできた食べ物。炙りしめ鯖はしらない味がした。帰り道にある橋の上でしばらく座って話す。引っ張られて浮いたダックスフンドの行きと帰りを見届けたところで帰宅。もうしばらくの間、そしてこれから先ずっと諦めていたので忘れていた、隣にいる人にそんな言葉を言われたら泣いてしまう。本人はかっこつけたこと、そのあとまたすこし体調が悪くなって呼吸を一緒に整えたり保冷剤を手渡したりしたことのギャップを恥ずかしがっていた。
2025.09.02
あまり早くは起きず家のことを整えて駅にちょうど着くタイミングを見計らって家を出る。今日はタルトをつくるのを見る会。一緒に八百屋・粉屋・無印をまわって買い出しをして順調に家に戻る。タルトの型を手に入れた。手数が多いものの方がいいということでタルトになった。巨峰はとても甘い。お菓子をつくると想像以上の砂糖とバターが入っていて毎回新鮮に驚く。料理をつくることには慣れているけれど、お菓子は、どうアレンジしたらいいのかわからないからすこし苦手だ。どの分量をいじっていいのかがあまりわからないノットフリーダムキッチン。慎重な手つき、ゴムベラと木ベラの使い分けの話、なにを考えている?という質問、すこし緊張するのは失敗がこわいからで決して見られているからではない、とやっぱり思う。綺麗に焼き上がる。葡萄が熱で染み出して、タルトの縁が色付く。ほんのり温かいタルトはつくったからたべられるものだと、おそらくお菓子作りの醍醐味としてはだいぶメジャーなきもちを大発見のように共有する。ついでに梨のタルトもつくって、もう18時は過ぎていたけれどおやつだったので晩御飯はサイゼリヤにいってほどほどに食べる。明日は健康診断。夜はすこし嫌なことがあって、ほとほと疲れてしまって、こういう悪意からはなれた場所に行きたいという気持ち、抱き合って眠る。
2025.09.01
寝坊して、持っていっていたお惣菜をパンにのせていい朝ごはんを食べる。このお惣菜があって助かった、と言われて、毎週500円とかでデリバリーするよ、というアイデアを昨日話していた。他者の食べることの不安を、こうやって解消することができること。整理整頓のバランス、なにかが崩れそうになる時のセーフティーネット。この数日で、自分でもはっきりは自覚していなかった言葉がいくつも出てきて、自分はこうして人と一緒にいるということを選んでいくのだと感じた。ちなみに病院でこのデリバリーシステムは褒められたらしい。外注、と言っていたな。その人の身体の代わりに、その人のことをやること。全く演技でもない、演劇のはなしとも違うと思う、きっと。
松戸へいって稽古、移動の時間は仕事をしようと思っていたけれどほとんど動画を見てしまう。帰りがけに無印でデリバリーシステム用のノートを買う。そういえばポッドキャストを始めたい。ようやく何を話すかが見えたのだった。家についてさっとお風呂に入り、ご褒美として注文していたサングラスを受け取る。暗い部屋の中ではどういう感じかわからないけれどおそらく似合っている。ここ数日さぼっているというか、あまり動かないようにしているなかで働いていて、今日もそのようにして眠るだろう。一つ文章を書いて、健康診断の問診を記入する。
2025.08.31
案の定寝坊する。上演を見て、片付けをして打ち上げ。なんで演劇をやっているんですか?と問われて、自分の感覚を再び言葉にする。もう何度目かわからないし、このことが話をするたびに精度が上がっていく感覚と、本当にそうか?という疑問が生まれる。ほどほどに解散、再び家に帰ってからまた家に向かう。昨日話しそびれていたことがあった、というか話を終えてなにか伝えそびれていることがあるという気がして、またたくさん話をした。本当にこのことが伝わるだろうかという不安があまりない、きっとこのことを話したとしても一緒にいることができるという確信めいたなにかを持ちながら口がするすると動いていった。ちょうど一年とちょっと前、すこし強引な、というか何か変な引力がかかった瞬間のことを何度もリフレインする。どちらからともなく話を終えて、またすこしだけ口が動いて、もうそのときに何を喋ったのか、それでもいつものようにどちらからともなく話を終えて、それぞれのタイミングで眠った。
2025.08.30
上演を終えて一度家に帰る。家のことを少しだけ整えてまた下北沢に向かうと、こんなに暑い中、外のテーブルに座って話している二人がいた。ホロスコープについて伝授してもらっていると笑顔がこちらに向く。話にすこしずつ混ざりながら、この人が別の人となにかを話しているという状態に直接立ち会うのは初めてだなと思いながら、普段との様子の違いを見ていた。6時間近くこうして話していてお腹が限界といってみんなで王将に向かう。思い思いに頼み、自己紹介も兼ねてたくさん話をする。聞きたかった話、このお店が劇場的な場所なのではないかという話から急に盛り上がり、食べ終わった料理の皿を使って図示したり、それこそホロスコープの占い的な言葉で自分のことを判断されながら言葉を高速で交わす。こうやって知らないことを知っていくのだという時間と、他人をこうして判断するような言葉を使っても許される時間のことを思う。なにかがわかると場が落ち着いて、もう流石にといって23時ごろにお開き。下北沢から歩いて帰りながら、ぼんやりした人の手を握っていた。家につくとどうにもヘロヘロになっていて、この時はまだ気づいていなかったけどおそらく熱中症、それでも動き続ける口。これまで話したことがなかった、もしかしたら話すことがなく一緒にいられるのかもしれないと思ってちょうど1年経った頃に、そのことを話した。とても回り道をしながら、お互いの話を丁寧にして、ずれているとか違う、みたいなことにあまり引っかからないで、ただそれとして聞きながら、それでも何度も戻ってその言葉を重ねた。関係性のこと、誰かと一緒にいるという感覚の話。初めてこのことが受け入れられた、そう一方的なことだけではないけれど確かにそう思ってゆっくり眠る。
2025.08.28
朝ミスドに行き集合時間の10分前前までドーナツを頬張っていた。冷たいミルクは家で飲む牛乳と味が違うことを知っているのであると頼んでしまうことがある。午前中のうちから本番を一つ、子ども相手に見せてどっと疲れ、休憩は2時間のおしゃべり。早めに終えて喫茶店で少し詰まっていた仕事を進めそのまま帰る。西荻窪でごはんを食べワインをグラスで何杯か飲む。選ばれたワインはどれもおいしく料理に合う。ペアリングされていなくても味のトーンが揃っていることがお酒をサーブすることの喜びの一つだなと思う。夜道を歩き、話し、また家に帰ってくる。明日は別の家に帰るために荷物を整えて眠る。
2025.08.24
川に行く。家を出るときに目的にしていた場所は家から電車で一時間くらいの場所だったけれど、同じ電車に乗っていた人の多くがそこで降りようとしたので、そのまま乗り続けもっと奥まで行く。気づいたら先月スカンクさんと一緒に来たところの川向こうの方に降りてきていた。初めてからすぐ、大きめのサイズのおそらくニジマスが釣れた。ギャンブルみたいな当たったときの震えの興奮はあまり感じられず、川の音、徐々に冷たくなる足と日に焼けていく感覚の方がジリジリと迫ってくる。遠くの方の岩の上にサギが止まって川の中を眺めていた。早いうちに集中力が切れ撤収する。小さなハサミでエラを切って内臓を取り出して血抜きをする。切り離された内臓と一緒に一匹を並べて写真を撮った。
次来る電車を待ちながら山菜の漬物を買う。帰りの電車は想像していたよりも混んでいて、濡れたサンダルで踏ん張りが効かなかった。
2025.08.23
ゆっくり起き上がり、なにもできない。そろそろ働き始めたい気持ちはあるのだけれど、大きく削れてしまった体力と集中力がなかなか戻ってこない感覚がある。植物の切断面を保護する薬が届いていたのでチューブを開けてみると独特な黄土色に、鼻につく匂いがした。薬は薬らしい匂いがする方が安心する。ノコギリの刃先を綺麗にしてミモザを切っていく。この夏であまりに大きくなりすぎていて隣の家の勝手口側に侵入し始めていたので流石にと切り始めた。ロープで牽引し、隣家の玄関先から方向を変えてのぞいたりしながらバランスを見てざくざく切っていく。部屋の中にごろっと横たわったとても重たい枝先にも蕾がついていた。知床に行っている間に手に取った川村喜一による写真集の中に写っていた、撃たれた鹿のことを思う。ゴミ袋二つ分、手際よく重量を切り分けていく。迷い込んだ蟻や蜘蛛も手際よく外に出した。蕾がつくのは今年が初めてて、無事次の春に咲くといいが、今日の剪定がどう影響するだろうか。長い時間をかけて向き合うもののこともうまく捉えられなくなってきている。蕾がついていた葉先は小さく切り分けて一つは花瓶に、もう一つの塊は束にして吊るした。
明日は今年おそらく最後になるであろう渓流釣りに行くために資材の買い出しに行った。ついでに空っぽになっている冷蔵庫を埋めるための食材の買い出しも済ませる。一息つく前に銭湯へ行き、よく休む。家に帰っても何もできずパラパラと送られてくる連絡に返事をしたり、横になりながら画面を見続けている。
2025.08.20
東京に戻ってきた。2週間はあっという間でなにも変わらず戻ってきたと思ったけれど、働くことのサイクルはすっかり見失っていてこうして日記を書き始める。ぼんやりとした頭で家のことを片付けつつ、植物の様子を見ている。ついにミモザが蕾をつけ始めた。次の春には黄色い花をつけるだろう。支柱を折るほどに重たく傾いている。明日、蕾を切り落とさないように慎重に形を整えてあげる。今日はこれからぼちぼち働いて、自分のWebを更新しやすい形にすこしだけ作り替える。SNSをすこしずつ離れ、ちゃんと文章を書いたり読んだりする時間を作りたいと思う。もうすぐ秋が来る夜の気配が東京にも流れていることが嬉しい。