未満の、

直近に参加していたクリエーションでは、待つ、ということにほとんど時間を使っていた。ここで言っている、待つ、ということは例えば、植物と過ごす時間に似ている。家にはもみじがいるのだけど、世話と言えば日ごと、その様子をよく見るくらいで、自分にできることはかなり限られている。毎日たいして変わりはないのに、気づいたらもう、一週間前と全然ちがっているなんていうことがほとんどだったりもする。そういうささやかさで、この先に長い時間が続いていくことを予感させてくる。

なにをやっていたかというと、はじまりは、素材へ接近することだった。最近は、なるべくそのままやる、という意識が働いていて、そのための作業だったように思う。輪郭に触れ、形を認識する。こういう肌ざわりなんだ、このあたりから色が変わってるな、小さく音が鳴っている。普段より細かいところに意識を傾けて素材を観察することは、そのものが持つものを一つひとつ確認するような時間だった。すぐに分かってきたことは、素材は、すでに複雑に絡み合っていて完成している、ということだった。同時に、意味とか解釈、情緒的なものを自分の方から持ち込むことは到底できない、とも感じた。次第に、言葉によって固定すること/意味を見出すこと/祈りを込めることは、素材への外部からのアクセスでしかなく、自分が生理をつけるためだけに引いた線だったように思えてきた。単純にすることも、付け加えることもできない。こどもが描いた絵があって、川を見た日があって、遠くで雨が降っていたことを突然に思いだした自分がいただけだった。ただ、素材の輪郭に触れ、内部になにかがあることを感じている以上、そこに直で触れたい。この、からだとからだ、あるいは、からだと空間、のあいだで起こっている、寄り添うことも突き放すこともせず保留にしている時間を、待つ、と呼んでいた。お互いに輪郭を保ったままでいられたことで、そのままやる、ということがはじめてできるのではないか、と感じていた。

待つ、ということを経過しながらつくられた動きや喋りはすべて、行為(営み)と名前を付けるのがふさわしいほど、シンプルなものだった。動機は一つもないけれどただそれを遂行する、ということを何度も何度も繰り返すことしかできなかった。それでも忘れることはあって、時々立ち止まって振り返った。からだはほとんど空っぽの状態かもしれないと不安に思っていたにもかかわらず、繰り返すうちに、もっともっと澄み渡っていく。徐々に、あたまは行為からさえも離れていき、遠くの音が聞こえる。風が吹いたように、行為(営み)に追随して、なにか、が流れ込んできた。これが、なんだったのかはいまだによくわかっていない。素材に紐づいたもの、内部にあると感じていたなにかかもしれないし、自分の中で触発された記憶と結びついただけかもしれない。けれど、行為(営み)を繰り返すことで、なにか、の彩度はどんどん上がっていった。終わるころには、目の前で見ている人には仔細まで伝わらなくとも、その手触りくらいは伝わっているんじゃないかと、ほとんど確信していた。

待つ、ということによって、すべてを、未満の状態として扱う。そうやって繰り返した先でも、舞台上で風が吹くことを感じられてよかった、と思っている。

2022.06.11