ものすごく遠い、そして(あるいは)ものすごく近い

景色はとても大きい。あまりの大きさに、ほとんど眺めることしかできないでいる。この場所からは、ところどころ霞んでいて全体がぼんやりして見える。“景色”とはそういうもので、対面したときにからだを纏う空気はカーンと抜けてハリがありつつも、どこか油断している。その空気に触れると皮膚も緩み、時間をかけて自分の輪郭がふたたび形作られるような心持ちになる。川にときどき行きたくなるのは、からだがこの感じを求めているからなのかもしれない。

離れたとこから眺めることも、ここにいて待ち続けることも気持ちのいいことだけれど、景色を立ち上げる、となったときにはあまり意味がないように思えた。ぼんやりとし続けるばかりで、いつまでも掴みどころがない。

このからだをすっぽりと包み込んでしまえるほどの巨大さに、空気を掻き、一歩ずつ分け入っていく。そこにはいろんなものがあった。音の波、匂いの色、時間の揺れ。一つはひとつのまま、くっついたり離れたりを繰り返す。素材をこのからだに内在化させそれが含みもつ質感や感覚を追随する。つかんだものを取りこぼさなように皮膚は厚みを持ち、意識がからだの内側へと向いていった。ときどき風が吹いて、皮膚のウラを撫ぜる。これまで「接近」と呼んでいた作業と同じ手応えだった。

場所を変えながら「接近」する。繰り返すごとに風はつよく多く吹いたけれど、そのどれもが瞬間的で、常にありつづける景色へと接続していく感覚を得られなかった。その大きさゆえに“景色”を内在化することはできなかったし、それぞれの素材も景色に奉仕することはなく、ただそこにあるだけだった。「接近」を繰り返すことで分厚くなった皮膚も、景色を眺めているときとはかけ離れているように思えてしまう。

遠く、向こうのほうから声が聞こえた。

こちらから、5分前にいた場所が見える。

手を振ると、返事があった。

このからだはすでに、景色の中にあった。

そのことに気づいたとき、景色を遠く離れたところから眺めていたときと同じように空気がほどけた。そもそも境目などなかったかのように皮膚は緩み、輪郭が薄くなっていく。緩んだところからは風が抜け出し景色と混ざり合う。この腕が、足が、声が、線/色/音/形となり、景色を構成していく。素材へ接近するために分け入ったことで、むしろこのからだが“景色”に取り込まれ、すでにその一部となっていた。

素材をからだに内在化しようとする作業を「精神的な接近」、実際に触れその場に行くことを「物理的な接近」と名づけてみる。からだを中心に据えたときに、前者は皮膚の内側に、後者は皮膚の外側に重心が傾き、視点がひっくり返った。「物理的な接近」では、意識が保留され、“景色”の中では素材とからだが等価になった。その状態でのミラーリングはもはや形ばかりのものではなく、素材とからだをすこしずつ交換するような作業だったように思う。繰り返すほどに境界は消え去っていき、次第にからだの内と外の区別のない連続する繋がりになった。このからだ全部が外側になった。

上演の場に向かうには、立ち入ったところから戻ってくる必要があった。ここはとても静かだったけれど、向こうの方で鳥が鳴き、植物が揺れる。その心地よさが、皮膚のすぐオモテを駆ける。声や四肢は、動くたびに“景色”を生成し続けた。と同時に、ぼくもその“景色”を、観客と一緒に眺めていた。

2023.01.19